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六、理由

 水の流れる音がする。
 アリアが立っているのは橋の上だ。
 …寒いのが嫌いなくせに、冬の川の近くに立つとは。
 バカじゃないか、とユーラはどこかで感じている。

 アリアとユーラの間には、二歩程度の間があった。
 先程まで手を掴んでいたのだが、気付けば手を離していた。
 ユーラは、もう一度腕をのばせばアリアに手がとどく。
 …けれど。
 手を、のばせなかった。

 しばらくの、間。
 アリアがふいにユーラに背を向けた。
 それがわかった。
 立っていたアリアは今も肩で息をしながら座り込み、冬の川を見つめている。
 …何を見ているのだろうか。
 ユーラは一歩、近づいた。
 ユーラもアリアのように川を見つめる。
 流れのために、揺れる水面。
 …特に変わったものは見られなかった。

 ドンッ
(…え?)
 グラッ

 多分、一瞬のことだった。
 後ろから押されたかと思うと…しびれるような痛みを体のあちこちから感じる。
 ユーラは、冬の川に落ちていた。

 上下左右…わからなくなる。
 息が苦しくなって、もがいた。
 硬い感触…手と膝が、川底についた。
「…っぁ!!」
 ユーラは呼吸を繰り返す。
 顔から突っ込んだため、一瞬状況が把握できなかった。
 自分が川に落とされた、という状況に。
 水の流れは幸い緩やかで、気張れば流されないで済みそうだ。
 …しかし。
 ザバッ!!
 顔を出した瞬間、ユーラのすぐ傍で水しぶきがあがる。
 …というか。
「!!!」
 せっかく顔を出したというのに、またもや水の中に潜ってしまった。
 上から飛び込んできた何かに、水の中に押し戻されたのだ。
「何をする!!」
 勢いよく顔を上げ、自らを水の中に押し戻したものに怒鳴り声を上げる。
 …その正体は。
「――だったら」
 おそらく、自分を川に突き落としたであろう犯人。
「長々と潜ってないでちゃっちゃと顔だしやがれ!!」
 アリアだった。

 アリアの歯がカチカチと鳴りだす。
 もう、寒いらしい。
 そんなアリアの様子を見て、ユーラも寒いような気がしてきた。
「文句を言うなら落とすな」
 ユーラはザブザブと移動して、肘から腕に力を込めるようにして橋の上に上る。
 川の水面と橋の間はさほどない。
 水量は端のほうなのでまだ浅く、ユーラの腰くらいだった。
「後ろから押されたくらいで落ちるなよ」
 バランス取れ、バランスを。
 差し出されたユーラの手につかまり、そんなことを言う。
「……」
 このくそガキ、とユーラは思ったが、口にはしない。
 冬の厚着は重くて、アリアはなかなか持ち上がらない。
 川の流れで時々よろよろしているアリアでは、集中せねば流れてしまう。

 アリアもようやく橋の上に上がると、ありがとうも言わずにボソリと言った。
「…        」
 アリアの言葉が聞こえず、ユーラは「へ?」と聞き返す。
 そんなユーラを睨み、アリアは咬みつくように言った。
「死んだかと思った!」
 ユーラはアリアの言葉を頭の中で繰り返し、「は?」と間抜けな声をあげる。
「なかなか顔を出さなかったから、死んだかと思った!!」

 ――どうやらアリアは、ユーラのことを心配したようだ。
 自分が落とした張本人だというのに。
 伝い落ちる雫を振るい払いつつ、呟いた。
「そう簡単に死ぬかよ…」
 言って、ふと何かがひっかかった。
 ――前にも、こんなことがあった?

 澄んだ水面。濃い緑。そよぐ風…。
『死んでしまったのかと…っ』
 …あれは…今のような寒い時季ではなく。
『そう簡単には、死にませんよ』
(…あれは――)
 ユーラは空を見上げた。
 夜空も月も星も、今は見えなくなり、雲が厚くなっている。
 …雪は、止む様子を見せなかった。

 

 自分はなぜ、生きているのだろう。…そう、考える。
 喜び、悲しみ。
 愛しさ、…切なさ。
 感情と呼べるものは、みんなあの少女ひとがくれた。
 みんなみんなあの少女ひとが…くれた。
 …その少女ひとは逝ってしまったのに。

(…どうしておれは死なないのだろう)
 彼女はこの世界に亡いのになぜ…自分は、死なないのだろう。
 密かに思っていたことだ。
 …その答えを、今、思い出した。

『死なないで』
 彼女の言った、言葉。
 ――何年前だったろうか。
 夏に水遊びをしていたとき、貧血か何か…ともかく、バランスを崩した彼女がボートから落ちたのだ。
 …情けないことに。
 ユーラは湖に飛び込み、彼女を助けたまではいいとして…その後、自分がボートから手を滑らせた。
 それで今日のように、しばらく顔を出さなかった。
『ユーラ! …よかった…』
 やっとボートに這い上がったユーラに、彼女は言った。
 …死んでしまったかと思った、と。
 そして…。
『ちゃんと…最後まで』
 ――生きて。
 そう言ってびしょ濡れのままのユーラを、小さな腕で抱きしめたのだ。

 彼女の言葉に従うと決めていたユーラに…彼女が言った言葉。
 だからだ。
 だから、ユーラは死なない。
 ――自分が不死の存在である、なんて思っているわけではないけれど。
 いつ死んでもいいと思いながら、できるだけ長く生きようと誓っている。
 あの日の――彼女の言葉ゆえに。

 
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