とりあえず体を温めねば、と。
ユーラはアリアの手を引き、神殿へ向かった。
…アルスタインの眠る、神殿へ。
ほんの少し前までは、神殿の方向へ向かうことを拒否しているようだったというのに。
ユーラがアリアに「神殿で体を温めさせてもらおう」と、言ったのだ。
川に突き落とされたユーラと、飛び込んだアリアと…二人とも全身ずぶぬれ状態だったが、神官に深く突っ込まれることはなかった。
「どうぞ、こちらへ」
「すみません」
神官は、二人のために部屋を用意した。
暖炉には赤々と炎が揺れる。
アリアは靴を脱ぐと暖炉の前の敷物に座り込んだ。
「あったけー」
心底、そう思っているのだろう。
アリアの頬は緩んでいる。
「ユーラはあたらないのか?」
橋の上の叫びが嘘だったように、靴も脱がずに立ったままのユーラにアリアは問いかける。
もちろんあたる、とユーラも暖炉の前に座った。
神殿には泊まりこみで務める者もいる。
そういった神官のために神殿にも一応風呂はあり、風呂を借りることが出来た。
「温かいな」
服も、神官が貸してくれた。
濡れてしまった二人の服は部屋の椅子にかけてある。
よく絞りはしたが、風呂に入って出るまでに乾くはずもない。
パチパチと火が、燃える。
『帰るときに声をかけてくださればいいですから』
アリアはふと、神官の言葉を思い出した。
(…つまり、気が済むまでこの部屋にいていいってコトだよな)
アリアはそんなことを考え、一人フムフムと納得した。
そして、チラリとユーラを見上げる。
ユーラはボーッと炎を見つめていた。
――この神殿のどこかに『還る者』の場があり。
この神殿のどこかで…アルスタインが、眠っている。
「ユーラ」
沈黙を破ったのは、小さな声だった。
ユーラは声なく、視線だけでそれに応じる。
「ユーラは…泣かないのか?」
唐突なアリアの問いかけにユーラは一度目を丸くし、それから、瞬きをした。
暖炉の炎に視線を戻しながら答える。
「約束が、ある。…あの少女との」
僅かに頭を振りながら言ったユーラに、アリアは意識せず唇を噛んだ。
名を口にしないのだろうか? ――口に、できないのだろうか?
「香菜…」
アリアは、口にする。
「…アルスタインとの?」
アリアの言葉にユーラはアリアは視線を戻し、見つめた。
そして「あぁ」と頷く。
「香菜が…死んだ時…」
そう言って、アリア自身の胸がチクリと痛む。
切なさに、締めつけられるように…胸が苦しくなる。
「悲しくはなかったのか?」
ユーラは一度口を開けて、閉じる。
しばらくの間。
細く、ユーラは息を吐いた。
「…もちろん、悲しかった」
ユーラはそう言った。口調はいつも通り、淡々としたまま。
暖炉の炎で揺れる光に、ユーラの赤茶っぽい髪がより赤みを増す。
「だったら!」
アリアはやや声を荒げた。
約束を守ることは大切だ。もちろん。
でも。――だけど。
「どうして悲しまない? お前は生きていくんだろ?! …悲しい時に、悲しまなくてどうするんだよ…っ!」
アリアの声を荒げたままの主張にユーラは応じる。
「…泣くだけが、悲しみを表現する方法じゃない」
アリアはその言葉に一度、ぎゅっと唇を噛む。
「そんなこと、知ってる。だけど…」
あぁ、どうして自分は。
こんなにも言葉を知らないのだろう。
どう言えばいい? どう言えば伝わる?
泣けばいい。叫べばいい。
それで、胸のつかえがほんの少しでも解けるなら。
帰らない人。恋しい、大切な人。…逢いたい人。
どうしようもないことだと…胸に秘めて、しまいこんだまま――膿のように、ため込んでしまわないで。
(香菜。…ねぇ、香菜)
アリアは祈るように、心の中で名を呼んだ。
許して、と――乞うた。
(泣くことを、許してやって)
自分はもう、泣いてしまった。
けれど…ずっとアルスタインに仕え、言葉を守り…今も、約束を守り続けているユーラ。
(約束を破ることを、どうか――)
「泣く以外に、悲しみを癒す方法はあるか?」
アリアは、やっとそう言った。
その言葉にユーラは瞳を閉じた。
アリアは続ける。
「泣けよ。…泣いて――」
泣いてしまって。
「いつか、『還る者』の場にいった時にさ」
この言葉が伝わればいい。
この思いが、伝わればいい。
「二人で…」
ごめん、と。約束を破ってごめんと。
「謝ろう?」
トーリから受け取った、アルスタインからの手紙。
薄紅色の便箋に、丁寧で繊細な…アルスタインらしい、字。
そこに綴られた言葉は優しいばかりだった。
『貴方と過ごせた時間は、何事にも代えがたい宝物となりました。
幸せな時間をありがとう。
貴方と同じ音の享名であることを嬉しく思います。
どうか、花名が笑顔で過ごせますように。』
アルスタインはきっと笑っている。
『還る者』の場で、笑っている。
…そう、思わせてくれる内容だった。
アリアはユーラに告げながら、思った。
――ユーラがすきだ。本当に、だいすきだ。
そう、思った。
ユーラが川から顔を出さなかったとき。あの時の恐怖で、わかった。
――喪いたくない人だと。
母と、アルスタイン…彼女等と同じくらい、大切な人だと。
今…生きている人達の中で、一番…だいすきな人なのだと。
「ユーラ」
アリアは繰り返し、名を呼ぶ。
ほんの少しでも楽になってほしい。
心のつかえや苦しみを…大きなトゲを、叶う限り減らしてほしい。
アルスタインはきっと…ユーラの笑顔を望むだけ。
泣かないでほしいと思って、告げていても…泣いて、心が軽くなるというのなら、それを望んでくれると思う。
――だから。
「泣けよ」
ユーラからの返事はない。
炎の色にわずかに染まって赤いユーラ。
アリアは隣から顔を覗きこむ。
――ユーラは、右手で両目を押さえていた。
「ユーラ…?」
アリアの呼びかけに、ユーラは小さく答えた。
「…他人に、涙を見せられるか」
「あぁ――…そっか」
アリアはそう言うと立ち上がった。
ほんの少し移動して、すとんと座り込む。
「カナ――…」
アリアはユーラの背に、自らの背を合わせるようにして座った。
「見えない」
呼び方が未だに『カナ』であることが少し腹が立った。
だが、今は目を瞑ってやろうとアリアはユーラに背中を預け、言葉通りに目を瞑る。
目を瞑れば周りの様子は見えないし、そもそも背中合わせでは、顔も見えない。
…涙は見えないから。
「気にするな」