『ユーラ』
思い出す彼女の表情はいつも悲しげなものばかり。
夢の中の彼女も、思い出の中の彼女も。…表情は、悲しげなものばかりだ。
『気にするな』
アリアの言葉。背中からの温もり。
生きて、今、傍にいる『花名』。
「……」
ユーラの唇がアルスタイン様、と象る。…当然だが、返事はない。
名を呼んでも帰ってはこないのだ。
…自らの前に、現れてはくれないのだ。
それを、また、思い知り…。
『泣かないで』
彼女の言葉。彼女との、約束。
大地に帰り…今、逢うことはできない『香菜』。
「アルスタイン様――」
ユーラは背中の温もりを感じながら、言った。
彼女は、いない。その事実を、ユーラは今一度噛みしめてしまう。
『名を、呼んで』
呼ぶことのできなかった名前。
――自らにはないものだからと、呼ぶことのできなかった享名。
「――…香菜…」
呟いて…心臓にツキリときた。
その痛みのまま、倒れるなら…それもよかった。
けれど、そんなことはなく――ユーラの中で、何かがはがれ落ちるように、崩れていく。
――いつか死んだら。
『二人で謝ろう』
アリアは、言った。
いつか、『還る者』の場に行く時になったら…。
(謝ります。…たくさん、謝ります。だから――…)
やや温もりの戻った自身の手に、じわりと滴が触れた。
『泣かないで、ユーラ』
…約束を、破る。
ただ一人――ユーラに、心を…感情を、くれた人。
唯一で、絶対の少女。
(…アルスタイン様…)
彼女との約束を…初めて、破る。
(――香菜…)
ユーラの手のひらに、また一つ、二つ…と滴が触れる。
溢れ、零れる。
「…………」
――ユーラは、泣いた。
声もあげずに、ただ静かに…涙を、流した。
ユーラに背を預けながらアリアは、黙っていた。
何も言わなかった。
『泣けよ』
そう言って…『見えない』だから、『気にするな』と言ってからは…ただ、温もりだけをくれた。
『ここにいる』
――そんな言葉の代わりのように。
(…アルスタイン様…)
最後までユーラは声をあげることはなかった。
体が温まって服も乾くと、二人は神官に礼を言って家に帰る。
家に着くまでの間、二人は何もしゃべらないまま…はらはらと止まない雪に、舞い降る桜を重ねながら。
(アルスタイン様――)
ユーラはその日、約束を破ったというのに。
アルスタインが笑っている――そんな、夢を見た。
それは単なるユーラの願望で、本当は笑ってはくれないのかもしれないけれど…。
アルスタインが笑う。
『ユーラ』
その微笑みには悲しみの気配は微塵もなく、穏やかな…優しい微笑みだった。
・ ・ ・
突発的寒中水泳から、数日が経った。
神殿できちんと体は温めたものの、日頃の不摂生がたたり、ユーラは五日ほど寝込んだ。
アリアのほうが寒がっていたが、翌々日にはほぼ完全復活となり、トーリに「ほれ見ろ!」と言われ、ユーラは呆然とした頭でそんなトーリの言葉を聞いていた。
今はもう、使用者と雇用者の関係ではなく、近所…というほどには近くないが…付き合いの関係であるハリウルも見舞いと、アリアが「知恵を貸してくれ!」と言ったため病人食を作ったりもした。
自身の意思で動けるようになり、普通の食事を摂れるようになると、ユーラは一日二回は「食べよう」と思えるようになった。
アルスタインが亡くなって以来食事は別に二日に一度でもいい、とか思っていたユーラの食欲は増した。
そして、完全復活を果たしたユーラはようやく、手紙を手にした。
トーリから託された、アルスタインからの手紙。
亡くなって…春になれば一年になる。
もうすぐ一年。
もう、一年…まだ、一年。どちらとも思えるけれど。
自室の机で開封する時、寒くもないのに手が震えた。
封筒の中身は真っ白い一枚と、薄紅色の二枚と、合計三枚入っていた。
薄紅色の二枚は、手紙だった。
彼女らしい丁寧で、繊細な字。
一度読んで唇を噛み、二度三度と読み返して胸が軋んだ。
『ユーラは世界で一番私を幸せにしてくれました。
私も、少しは貴方の幸せの欠片になれたでしょうか。』
当然です、とユーラは応じた。
…それに応じる答えがないことにまた、心臓が痛む気がする。
欠片なんてものじゃない。
アルスタインは、ユーラの幸せの全てと言っても過言ではなかった。
アルスタインにとって…ユーラが『一番幸せにしてくれた』というなら、ユーラもまた、アルスタインが『一番幸せにしてくれた』存在だ。
『私の生きた時間が短いなんて思ったりしないで。
私の代わりにというなら、泣いたりしないで。
ユーラが私がいないことを寂しいと、悲しいと思ってくれるなら、どれだけ泣いてくれても構わない。
不謹慎だけど、その涙は私は嬉しい。
でもどうか、嘆き続けたりしないで。』
ユーラは口を覆った。
…今までずっと、耐えてきたものがまた、溢れそうになる。
『私は確かに幸せだから。
ユーラがいてくれて、誰よりも幸福だから。』
とどかない声。
触れあえない体温。
…それでも…。
『私を幸せにしてくれたユーラが、世界で一番幸せでありますように。』
ここに残してくれた、アルスタインの祈り、願い。
手紙という、形。
――アルスタインの優しいばかりの言葉。
手紙を丁寧に折り畳む。
「アルスタイン、様…」
呟いて、ユーラは手紙を机の上に置く。
肘を着き、両手で目を覆った。
・ ・ ・
ガタ… ガタン…
「ユー…」
名前を呼びきることなく、アリアの動きは止まった。
「…何を、して、いるんだ?」
アリアは一言ずつ区切り、ユーラに問いかける。
ユーラが完全復活した翌日だ。
昨日、ユーラが「もう大丈夫だ」と言っていたから、アリアは信用して母が遺してくれた家に戻っていた。
昼…基本的に食事に興味がなさそうなユーラに「メシ!」と言おうと思ったところで、現状になる。
「見てわからないか? …片付けだよ」
「んなモン見りゃわかる! …けど…」
アリアの反応にユーラは小さく笑う。
アリアが戸惑う理由は、ユーラの片付けている部屋にあるだろうと予想できたから。
「…香菜の部屋、片付けるのか?」
アリアの『戸惑いを隠しきれない』というような問いかけにユーラは「ああ」と答える。
はっきりと。
「おれは…ここに、アルスタイン様を閉じ込めてしまっていたからな」
彼女はここにはいない。
『還る者』の場に…そして。心の中に、彼女はいる。
「片付けて、しばらくここを出ようと思う」
「ここを、出る?」
「ああ」
ユーラはアリアの問いかけに答えながらも、働く手は止めない。
「この町を出るのか?」
「…そうだな」
まだまだ続くと思われたアリアの問いかけが、止んだ。
「? どうした?」
突然黙り込んだアリアに、ユーラは声をかける。
アリアは下を向いていて、表情が見えない。
そして、そこからバタバタと走り去る。
(なんなのだ?)
ユーラは密かに首を傾げたが、作業の手は休めない。
そのうち、奥からカタ、カタンと音がしだす。
…ユーラは自分の作業に夢中で気付かなかったが。