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八、手紙−ⅰ

『ユーラ』
 思い出す彼女の表情はいつも悲しげなものばかり。
 夢の中の彼女も、思い出の中の彼女も。…表情は、悲しげなものばかりだ。

『気にするな』
 アリアの言葉。背中からの温もり。
 生きて、今、傍にいる『花名』。

「……」
 ユーラの唇がアルスタイン様、と象る。…当然だが、返事はない。
 名を呼んでも帰ってはこないのだ。
 …自らの前に、現れてはくれないのだ。
 それを、また、思い知り…。

『泣かないで』
 彼女の言葉。彼女との、約束。
 大地に帰り…今、逢うことはできない『香菜』。

「アルスタイン様――」
 ユーラは背中の温もりを感じながら、言った。
 彼女は、いない。その事実を、ユーラは今一度噛みしめてしまう。
『名を、呼んで』
 呼ぶことのできなかった名前。
 ――自らにはないものだからと、呼ぶことのできなかった享名なまえ
「――…香菜…」
 呟いて…心臓にツキリときた。
 その痛みのまま、倒れるなら…それもよかった。
 けれど、そんなことはなく――ユーラの中で、何かがはがれ落ちるように、崩れていく。

 ――いつか死んだら。
『二人で謝ろう』
 アリアは、言った。
 いつか、『還る者』の場に行く時になったら…。
(謝ります。…たくさん、謝ります。だから――…)
 やや温もりの戻った自身の手に、じわりと滴が触れた。
『泣かないで、ユーラ』
 …約束を、破る。
 ただ一人――ユーラに、心を…感情を、くれた人。
 唯一で、絶対の少女。
(…アルスタイン様…)
 彼女との約束を…初めて、破る。
(――香菜…)
 ユーラの手のひらに、また一つ、二つ…と滴が触れる。
 溢れ、零れる。

「…………」
 ――ユーラは、泣いた。
 声もあげずに、ただ静かに…涙を、流した。

 ユーラに背を預けながらアリアは、黙っていた。
 何も言わなかった。
『泣けよ』
 そう言って…『見えない』だから、『気にするな』と言ってからは…ただ、温もりだけをくれた。
『ここにいる』
 ――そんな言葉の代わりのように。

(…アルスタイン様…)
 最後までユーラは声をあげることはなかった。

 

 体が温まって服も乾くと、二人は神官に礼を言って家に帰る。
 家に着くまでの間、二人は何もしゃべらないまま…はらはらと止まない雪に、舞い降る桜を重ねながら。

(アルスタイン様――)

 ユーラはその日、約束を破ったというのに。
 アルスタインが笑っている――そんな、夢を見た。
 それは単なるユーラの願望で、本当は笑ってはくれないのかもしれないけれど…。
 アルスタインが笑う。
『ユーラ』
 その微笑みには悲しみの気配は微塵もなく、穏やかな…優しい微笑みだった。

・ ・ ・

 突発的寒中水泳から、数日が経った。
 神殿できちんと体は温めたものの、日頃の不摂生がたたり、ユーラは五日ほど寝込んだ。
 アリアのほうが寒がっていたが、翌々日にはほぼ完全復活となり、トーリに「ほれ見ろ!」と言われ、ユーラは呆然とした頭でそんなトーリの言葉を聞いていた。
 今はもう、使用者と雇用者の関係ではなく、近所…というほどには近くないが…付き合いの関係であるハリウルも見舞いと、アリアが「知恵を貸してくれ!」と言ったため病人食を作ったりもした。
 自身の意思で動けるようになり、普通の食事を摂れるようになると、ユーラは一日二回は「食べよう」と思えるようになった。
 アルスタインが亡くなって以来食事は別に二日に一度でもいい、とか思っていたユーラの食欲は増した。

 そして、完全復活を果たしたユーラはようやく、手紙を手にした。
 トーリから託された、アルスタインからの手紙。
 亡くなって…春になれば一年になる。
 もうすぐ一年。
 もう、一年…まだ、一年。どちらとも思えるけれど。

 自室の机で開封する時、寒くもないのに手が震えた。
 封筒の中身は真っ白い一枚と、薄紅色の二枚と、合計三枚入っていた。
 薄紅色の二枚は、手紙だった。
 彼女らしい丁寧で、繊細な字。
 一度読んで唇を噛み、二度三度と読み返して胸が軋んだ。

『ユーラは世界で一番私を幸せにしてくれました。
 私も、少しは貴方の幸せの欠片になれたでしょうか。』
 当然です、とユーラは応じた。
 …それに応じる答えこえがないことにまた、心臓が痛む気がする。
 欠片なんてものじゃない。
 アルスタインは、ユーラの幸せの全てと言っても過言ではなかった。
 アルスタインにとって…ユーラが『一番幸せにしてくれた』というなら、ユーラもまた、アルスタインが『一番幸せにしてくれた』存在だ。
『私の生きた時間が短いなんて思ったりしないで。
 私の代わりにというなら、泣いたりしないで。
 ユーラが私がいないことを寂しいと、悲しいと思ってくれるなら、どれだけ泣いてくれても構わない。
 不謹慎だけど、その涙は私は嬉しい。
 でもどうか、嘆き続けたりしないで。』
 ユーラは口を覆った。
 …今までずっと、耐えてきたものがまた、溢れそうになる。
『私は確かに幸せだから。
 ユーラがいてくれて、誰よりも幸福だから。』
 とどかない声。
 触れあえない体温ねつ
 …それでも…。
『私を幸せにしてくれたユーラが、世界で一番幸せでありますように。』
 ここに残してくれた、アルスタインの祈り、願い。
 手紙という、形。
 ――アルスタインの優しいばかりの言葉。

 手紙を丁寧に折り畳む。
「アルスタイン、様…」
 呟いて、ユーラは手紙を机の上に置く。
 肘を着き、両手で目を覆った。

・ ・ ・

 ガタ… ガタン…
「ユー…」
 名前を呼びきることなく、アリアの動きは止まった。
「…何を、して、いるんだ?」
 アリアは一言ずつ区切り、ユーラに問いかける。

 ユーラが完全復活した翌日だ。
 昨日、ユーラが「もう大丈夫だ」と言っていたから、アリアは信用して母が遺してくれたアパートに戻っていた。
 昼…基本的に食事に興味がなさそうなユーラに「メシ!」と言おうと思ったところで、現状になる。
「見てわからないか? …片付けだよ」
「んなモン見りゃわかる! …けど…」
 アリアの反応にユーラは小さく笑う。
 アリアが戸惑う理由は、ユーラの片付けている部屋にあるだろうと予想できたから。
「…香菜の部屋、片付けるのか?」
 アリアの『戸惑いを隠しきれない』というような問いかけにユーラは「ああ」と答える。
 はっきりと。
「おれは…ここに、アルスタイン様を閉じ込めてしまっていたからな」
 彼女はここにはいない。
 『還る者』の場に…そして。心の中に、彼女はいる。
「片付けて、しばらくここを出ようと思う」
「ここを、出る?」
「ああ」
 ユーラはアリアの問いかけに答えながらも、働く手は止めない。
「この町を出るのか?」
「…そうだな」
 まだまだ続くと思われたアリアの問いかけが、止んだ。
「? どうした?」
 突然黙り込んだアリアに、ユーラは声をかける。
 アリアは下を向いていて、表情が見えない。
 そして、そこからバタバタと走り去る。
(なんなのだ?)
 ユーラは密かに首を傾げたが、作業の手は休めない。
 そのうち、奥からカタ、カタンと音がしだす。
 …ユーラは自分の作業に夢中で気付かなかったが。

 
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