其処を斬れ、と言わんばかりに。
首筋に、痣ができていた。
朝にはなかった。
『赦さない』
『アイツ』が目覚めたのか。
…あるいは、もうすぐ目覚めるのか。
『…させない』
『アイツ』の手下が、蠢きはじめている。
どんよりと、近い雲。…重い空。
――標 ハ 付 ケ タ――
ここしばらく、青空を見ていない。
――探 セ――
――見 ツ ケ 次 第――
――八 ツ 裂 キ ニ シ ロ…!!!――
蘭は空を見上げた。
――我知らず、そっと首に指先で触れる。
昨日家に帰ってみれば、トールの言うとおり、首に痣があった。
どうすればそんな痣ができるのかと思えるほど、まっすぐな線の痣だった。
蘭は見ないまま、痣をなぞるようにもう一度首に触れる。
そこにある、あかい――紅い線。
(…いつ、この痣がついたんだろう?)
蘭はそんなことを考えていた。
――見 ツ ケ タ――
「お、は、よーっ!!」
…と、ぼんやりしていた蘭にトールは背後からタックルをかました。
勢いは当然、手加減されている。
しかしぼんやりしてしまっていた蘭は相当驚いた。
真面目に驚いた。本気で、驚いてしまった。
「ト、トトトット! ル、くん…っ」
「アハハッ。蘭、ドモり過ぎ〜」
ついでに「君」はいらないってバ、とぺしっと軽く、蘭を小突く。
トールに浮かぶのは、笑顔だ。いつもどおりと言えそうな…へらへらとしているとも思える、能天気な笑顔。
…昨日の怒りの表情など、微塵も感じさせない。
「ねぇ、蘭」
トールは空に手を伸ばし背伸びをしながら更に言葉を続ける。
肩を回し、首を回し…その動きはなんだか準備運動をしているようにも見えた。
「なぁに?」
落ち着きを取り戻した蘭は少しばかり首を傾げつつ応じる。
――我 等 ガ 皇 ノ 御 前 ニ――
ざわめきが、聞こうと思わなくても耳に届く。
駅だから当然だ。
学校や会社に向かうであろうと思われる人達、もしかしたら遊びに行くかもしれない人達…通勤、通学の時間帯の駅には人々がごった返している。
「学校に遅れたらごめんね?」
「…へ?」
突然のトールの発言に蘭は妙な声を上げた。
内容はちゃんと理解できたのだが…意味がわからない。
謝罪と…なぜ、『遅れたら』などと言うのか…。
――殺 セ ! !――
空気が割れたような、急激な耳鳴りのようなものを感じた。
一瞬、鼓膜が破裂したかと思えた。
そんなことを感じながら…蘭は何か、違和感を覚えた。
(…あれ?)
変だ。そう思った。
――何かが、おかしい…。
「あ」
蘭は声を上げて、その違和感の理由を知る。
ざわめきが消えた。――人々が、消えた。
いや、蘭が『消えた』のだろうか。
目を閉じているつもりはないのに、視界が暗い。
ドクン、ドクン…。
鼓動が聞こえる。…そんな気がする。
自分の鼓動ではない、と思った。――何故か。
人々が消え、ざわめきが消え…『普通』とは思えない現状なのに、蘭は不思議と落ち着いていた。
…パニックを通り越して、平常心に戻ったのだろうか。
『蘭』
声が、聞こえた。
それは耳元の囁きではない。けれど、近い。
…頭の中…鼓膜を伝わった音ではない――トールの、声。
『蘭を害そうとする奴等が、来た』
(私を害そうとする、奴等?)
蘭は自身に届いたトールの言葉を繰り返す。
『そう』
応じるトールの声は近い。――なのに、姿が見えない。
あれが、と…トールの声が続く。今も、頭の中で声が響く。
蘭は意識して、瞳を開いた。そうして、自分が目を閉じていたのかと知った。
瞳を開いても、暗い場所。…暗い空間。
どこまでも、どこまでも…暗い、視界。
(あれ? …どれ?)
蘭の目にはどこも、どこまでも同じように見える。
見える、と思った。
『蘭、『目』を当てにしては駄目だ』
(『目』を当てにしない?)
『そうだ』
トールが応じる。…蘭は『声』にして呟いていないのに。
どこまでも続くように思える…闇の中で身を横たえればこういう感じかもしれない。
とても『通常』とは言えない現状でありながら、蘭は何故か今も落ち着いたままだった。
『目』を当てにしないというトールの言葉に従うように、瞳を閉じる。
そうした瞬間、一瞬蘭の手に何かが触れた。
それは蘭よりも少し大きな手だった。
…そう、思った瞬間に、手はズシリとした『何か』に変わる。
(え?)
この手の重みは何なのか。
意識せず、それを握った。
固い感触。…けれど、握りやすい。
ひやりとした――けれど、氷のような冷たさではなく…。
(…何――?)
『蘭、来る!!』
「「嵐、来る!!」」
トールの声が蘭の中で響いた。
――同時に、声が重なったと思った。
手に握ったモノ。
頭に直接響くような声。
暗い場所。――暗い、視界。
(…前、にも)
――こんなことがあった。
暗い場所。――暗い、視界。
風、圧力。
…言葉として、言い表せぬモノ。
蘭は『何か』をぎゅっとまた、更に強く握る。
腕を高く上げると、蘭は思い切りそれを振り下ろした!
――グ ァ ァ ァ ァ ァ ァ ァ ァ ッ ッ ッ ! ! !――
風の唸る音のようだと思った。
――獣の咆哮のようにも聞こえた。
響き渡った音が途切れると、蘭は目を開く。
視界は暗く、どこまでも暗いままで…目に見える変化はない。
だが、蘭にはわかった。
(私を、害するモノ…)
それは、自らの手で消えた。