TOP
 

其の十四

わたしは一人のひとと会った。
我知らず。
…幼い日に出会った、あの人とは気付かず。
――私は、一人の男と会った。

 

「…何を、している?」
 男は嵐にそう問うた。
 顔が見えるわけではない。けれど、背丈とその声で嵐はその人が男だと判断する。
 嵐は、男の言葉が自分に向けられたものだとは思わなかった。
 ――此処にいるのは、嵐と男の二人だけだというのに。
「…こんな夜更けに」
 男が一歩、嵐に近付いた。
 その行動ことで、嵐は男が自らに声をかけているのだと知る。
「何故、出歩いている?」
 近付いてきた男の声は、よく通る美しい声だった。
 涼やかな秋風。宵闇へと移る空の夕暮れ…その時の、澄んだ空気。
 それらを彷彿ほうふつとさせる、声。
(綺麗な声だ…)
 男の顔は見えない。
 距離ばかりではなく…衣を被るようにして、顔が隠されている状態なのだ。
「…口がけぬのか?」
 黙ったままの嵐に、男は言った。
 嵐はその言葉にはっとする。
「しゃ、喋れます」
 嵐は慌てて答えた。

 ほんの少しの間をおいて、男がまた一歩、近付く。
「…このような夜更けにどうした?」
 動かない嵐に、男は再度同じ言葉を口にした。
「………」
 なんとなく外に出てきてみたけれど、道に迷っている。
 …なんてことは、言えない。
 嵐はしばし考えた。
「――月の光に誘われ…参りました」
 嵐はやっと、そう答える。
 『月の光に誘われ』…とは言っても、今夜の月は細いものである。
 その答えは嘘ではないが、本当でもなかった。
 そんな嵐の言葉に男はふ、と口元に笑みを浮かべる。
「…そう、か」

 応じて男は、立ち止まった。
 さわり、と秋の風がふく。
 …嵐と男の合間に。
 髪を梳き、頬を撫で…ふきぬける。
 どちらも動かず、時ばかりが流れる。
「――あなたは?」
 嵐は問いかけた。
 沈黙に耐えきれなくて――ではなく。
 初対面の人でもあったにも関わらず…話がしたい、と思った。
 嵐は決して、人懐っこい性格ではないというのに。
「…私、か?」
 男は静かな声のまま、応じる。
「はい。…教えてはもらえませんか?」
 嵐は問う。男と…この、声しかわからない人と、些細なことでもいい…話をしたいと、そう思った。
 再び、風がふいた。
 嵐の髪が揺れ、男の被る衣も揺れる。少し肌寒い、長月の風。
 嵐は意識せず、二の腕をさする。

「…月に誘われた…とでも、しておこうか」

 嵐の言葉を真似るように、男は言った。
 ――言い終えると、男は衣をふわりと外す。
 夜の暗さに慣れた目で、嵐は男の顔を見ることができた。
「――…」
 呼吸が一度、止まる。
(…なんて…)
 切れ長の瞳と、薄い唇。…その、均整のとれた顔立ち。
 緩やかな癖のある髪が、衣につきそうにふわりと揺れる。
(なんて、綺麗な人だろう…)
 嵐はそう思った。
 宵闇へと移り変わる空の夕暮れ…その時の、澄んだ空気。
 それを連想させる声を美しいと思ったが…彼のその容貌もまた、美しいと思った。
 背丈、声、顔立ち…。
 それらでその人を『男』だと嵐は判断したが、『美しい』と思った。
 …男性に対して『美しい』と思うのは、少しおかしいのかもしれないが…嵐の中で、彼に対する評価言葉は『美しい』としか、思えなかった。

「羽織れ。…少しは違うだろう」
 男は被っていた衣を嵐に差し出すと、言った。
 ぼんやりしてしまっていた嵐は、しばらくして男の言葉を理解すると「え?」と声をあげる。
「これを、羽織れ」
 言葉を区切りつつ言われた。
 …男の言うことは、わかる。わかっている。だが…。
「そんな…お気遣いなく。私が薄い装いをしているだけなのですから」
 意識せず自分の二の腕に触れていたことに気付き、慌ててその手を外した。
 長月の風は肌寒かったが、耐えられそうな程度でもあった。
「いいから。…羽織れ」
「…でも…」
 初対面にも関わらず見せられた心遣いに嵐は少しばかり困惑する。
 そんな嵐の言葉を無視するように、男は嵐に衣を被せた。
 押さえてなくては、地面に落ちてしまう。慌てて男が被せた衣を押さえた嵐に、男の声が届く。
「――顔を出して歩くな」
 続いた静かな声…その内容に、嵐は再び「え?」と思った。
 この時勢、女性が顔を出して歩くこと、まして一人歩きをするようなことをよしとするような時代ときではなかった。…だが、そんなことは嵐には関係ないと思っていた。
 『女』として、誰かに…他人に扱われたことはなかったから。
 刀流が気遣ってくれていることはあるし、わかる。
 けれど、それは『女』としてではなく…『友』としてのもので。
「ありがとう、ございます…」
 嵐は随分と間をおいて、困惑を残したまま礼の言葉を述べる。
 今の嵐の装いも男がするもので、今のところ一族の者に女だとばれていないこともあり…よく自分が女だと気付いたな、なんてことを思った。
(いや…男とか女とか関係なく、親切にしてくださっている…のか?)
 生まれてからずっと、『男』として生活をしてきていて…『女』扱いをされるなんてことはないに等しく、判断ができない。

「こんな時間だ。…送ろう」
「え?」
 嵐は間の抜けた声を上げてしまう。
 思考ばかりではなく、声になる。
 ――正直に言えば、ありがたい申し出ではあった。
 だが、初対面の相手から衣を借りて、その上送ってもらうなど…ありがたさよりも申し訳ないという気持ちのほうが先立つ。
「でも…」
「遠慮などいらない」
 嵐の言葉を遮るように、男は言った。

「さぁ、行こう」
 男は嵐に手のひらを差し出す。嵐は更に俯いた。
「…さぁ」
 繰り返される誘い…男の優しい囁きに嵐は顔を上げた。
 嵐はおずおずと手を差し出す。…そっと、手のひらを重ねる。

『私が…連れていってあげるよ』
 ふと――過去こえが蘇えった。
 手を重ね、歩いたことを思いだす。
 優しい声。温かい手のひら。
(まさか…あの時の――?)
 嵐はそう思ったが、自分自身でその考えを否定して、頭を振った。
(そんな偶然、そうあり得ない)

「…どうした?」
「え?」
 何度目かわからないやや間の抜けた嵐の切り返しに、男は「気分でも悪いのか?」と問いかけた。
 嵐は「違います」と首を横に振る。
 フルフルと首を横に振る嵐の様子に、男はふっと微かな笑みを浮かべた。
「そうか」
 嵐はそんなふとした微笑も美しいと感じた。

「そなたの家は?」
 男の問いかけに嵐は少しばかり固まった。
 迷子中、とは言えず…とりあえず、場所の説明をする。
「――…」
 男が、わずかに目を見開いた。説明しつつ、俯いていた嵐は気付かない。
 男がふと目と口元を綻ばせる。「そうか」と、静かな声と共に歩き出した。嵐を導くように――迷いらしいものも見せずに。

 ポツリ、ポツリと会話をしながら、二人は嵐の家の前まで来た。
 見覚えのある道、そしてさすがに夜であっても、家の門を見間違えることはない。
「ありがとうございました」
 嵐は男に差し出された衣を丁寧にたたみ、深々と頭を下げた。
「いい。…気にするな」
 じゃあ、と今までの…親密とも思える…親切さを思うと、素っ気ないと思えるほど早々に、男は立ち去ろうとする。
「…あの…っ!」
 嵐は、驚いた。
 声を上げたのは自分。…何故、呼び止めたりしたのか。
 何故男を、呼び止めたりしたのか。
「…なんだ?」
 男が、振り返る。
 嵐は呼び止めた理由を探した。…それから、言葉を探す。
「――また…」
 呼び止めた理由は、わからなかいままだった。それでも…言葉を紡ぐ。
「…また、会えますか…?」
 嵐から受け取った衣を被った男の表情は、見えなかった。
 ――嵐の言葉に、少し目を見開いたことなど、知らなかった。

 わずかな間。
 けれど、嵐にとっては随分長く感じる間…――。
 微かに、けれど確かに、男は頷く。
「――また…この月の夜に」
 その答えに嵐は笑顔になっていた。
 その笑顔かおが細い月の下、随分儚く、淡く…けれど感情の溢れるものだという自覚はない。
「…――」
 男はすっと、嵐の髪に手を伸ばす。
 伸ばされた指先の行方を目で追った嵐は、ドキリとした。
「また、この月の夜に」
 男は嵐の髪を柔らかく撫でると、その髪をすくい上げ…そっと、口付ける。
「――はい…」
 嵐は細い声でどうにか応じた。
 震えてしまった声音に、男の唇が嵐の髪から外される。
 衣の合間から見えた口元に、笑みを刻んでいた。

 
TOP