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其の十五

わたしは、心奪われた。
…心奪われたとは、知らず。
――私は、あの方に心奪われていた。

 

「名は、霞月だ」
 あの方は、そう言った。…出会って、三度目の夜。
 細い、月の夜。
「…思いだした…」
 嵐はその呟きの意味を知らず――ただ、名を告げられたことを、名を知れたことを、嬉しく思っていた。

・ ・ ・

「この頃、多いような気がしないか?」
 唐突に、刀流は言った。
 風がふく。
 ――年明けの迫る師走。頬に触れる空気は冷たい。
 それでも、嵐は渡り廊下にいた。
 風は冷たいけれど、降り注ぐ日差しは優しかったし、冬の張りつめた空気を嵐は好きだったから。
「…何が?」
 突発的な刀流の問いかけに、嵐は切り返す。
「…わかるだろう?」
 刀流は嵐の問いに、また切り返す。
 音もなく、嵐の隣に腰を下ろした。
「…――」

 突発的な刀流の言葉ではあったが、『多いモノ』『増えたモノ』が嵐にも思い当たるモノがあった。
「…増えているのは、私の気のせいではなかったか…?」
 『悪霊』とは言わず、嵐は呟きを漏らした。
 言葉に宿っているとされる不思議な『チカラ』。――『言霊ことだま』。
 『言葉』が『言霊』となることを…具現化することを、どこかで恐れている。
「ああ…」
 刀流はそう言って、目を伏せた。

「――嵐」
 刀流は改まって、嵐の名を呼ぶ。
「この頃、夜に出かけることが多いな」
「……」
 嵐は沈黙で応じた。
 ――刀流の言うとおりだった。
 嵐はここ最近、毎晩のように出かけていた。

 「明日も会える」と、霞月が言ってくれるのだ。会いに行かないわけがない。
 嵐は、霞月が好きだから。…大好きだから。
 ――それを、口にしたことはないけれど。
「ん…」
 嵐は、刀流に小さく応じる。
 その答えに刀流はふっと息を吐いた。
 ――夜は、悪霊が活性化する時間ときだ。
「止めろ」
 きっぱりと、刀流は言った。
「嫌だ」
 嵐もまた、きっぱりと応じる。
 その嵐の短く、力強い答えに刀流は目を見開く。
 自分の強い口調に嵐自身も驚く。一度口元に手を伸ばした。
「…大丈夫だよ」
 嵐は刀流に応じた。
 刀流が嵐を案じてくれていることは、わかっていたから。
 心配ないと、告げる。
「本当に危ない時は、刀流を呼ぶって言っているだろう?」
 そして幸い、今まで霞月と会っている時に刀流を呼ばなければならないような事態になったことも、危険な目に遭ったこともなかった。
 嵐の返答に刀流はむぅ、と眉間にシワを寄せる。
「…オレも…」
 一緒に行く、と続けようとした刀流の言葉は嵐の「駄目」という一言で一刀両断された。

「あのひとは…内気な方だから…」

 続いた言葉に刀流はまた眉間にシワを寄せた。
 刀流は夜に出かける嵐が誰か…男…と会っているということは、話を聞いて知っていた。
 だが、刀流自身は会ったことはない。見たこともない。
 常人つねびとに刀流の姿は見えないはずなのだから、ついて行っても問題ないと思うのだが…。
 嵐が気になる、ということだろうか。
 何度か刀流は嵐との同行を申し入れをしているのだが、それは全て断られていた。
(…もう、尾行するつけるしかないか?)
 刀流が密かにそんなことを考えているとは、嵐は微塵も思わない。

・ ・ ・

 そして、今宵も嵐は外出をする。
 目に映った人に、嵐は笑顔を浮かべた。
「霞月殿!」
 呼びかけた嵐に、霞月はふわりと微笑んだ。
 初めて会った時から『美しい人』だと思った。
 けれど…更に、霞月は美しくなっているように思える。
 女性らしい、というわけではない。…それでも。
 嵐はボーッと霞月に見惚れてしまった。
「嵐」
 霞月は嵐の名を呼び、足を進めた。歩み寄り、再び嵐に笑みを見せる。
 ――二人は別に、会って何かをするわけではない。
 ただ会って、話して…同じ時間を共有するだけである。
 …時折、霞月が悪霊を祓う様子を見る時もあったが…。
(――悪霊を、祓う…)
 嵐はふと、思う。
 その、霞月が悪霊を祓う様子を思い浮かべた。
 …その様子を見て、たまに思うことがあるのだ。
 霞月の悪霊を祓う様子が――時折、霞月が悪霊を吸収しているように見える。
(いや…)
 嵐は自身の思考を振り払うように頭を振る。
(――気のせいだ)

 夜が更ける。月が中天に上がっていく。
 ――中天に上っても、雲がかかってその様子を見ることはないのだが。
「嵐」
 時間が経つのはいつも早く、そろそろ別れる…という時に、霞月は言った。
「…明日、昼間に会えるか?」
「え?」
 『会える』ということが単純に嬉しくて、声を上げた。
 それから、ドキリとした。
 …淡い光源の下で見る霞月も美しいけれど…陽光の下であればもっとはっきりと、霞月の姿が見れるはずだ。
 嵐は瞬きを繰り返す。
 嵐の表情を見て、霞月はふと吐息を漏らした。淡い笑みを浮かべる。
「――嵐の家まで、迎えに行くよ」
 嵐は微笑みを浮かべる霞月を見て、思った。
(…あぁ…)
 霞月は――名にもあるように月が似合う、と…。

 そしてこの日、二人は別れた。
 指先を重ね、もう一度、明日会う約束をして…。

 嵐は残っている気がする霞月の熱を逃がさないように、指先を包み込んだ。
 霞月はいつも、嵐を家の門まで送る。
 送ってくれた霞月を見送るのが、嵐の常だった。
 見なくなった霞月からふと、霞月の名にある月を探すように空を見上げる。
 意識しない行動ではあったが、ふと嵐は思った。
(…この頃、月を見てないな…)
 曇っているのだ。
 そういえば、この頃晴れ間も少ないような気がする。
 雨が降らなくても、さんさんとした陽光を感じることが少ないように思える。
 今更かもしれない。だが、嵐は思った。
(…悪霊の影響…?)
 まさか。…でも。
 きゅっと、嵐は唇を結んだ。
(刀流に言ってみよう)
 嵐は門に手を伸ばそうと振り返った。――と…。

 トン。
 突然肩に触れた感覚に、嵐はビクリとした。
 …気配がなかった。
(――何者…っ?!)
「…嵐」
 勢いよく振り返った嵐の目に映ったのは、中途半端に手を浮かせた刀流だった。
 届いた声と、目に映った存在に嵐はホッと息を吐き出す。
「刀流…」
 脅かさないでくれ、と嵐は少しばかり頭を振った。
 一瞬の緊張が、ほぐれる。

「――嵐」
 繰り返された刀流の呼びかけに嵐は「なんだ」と顔を上げた。
「…アイツ…」
「? あいつって?」
 少しばかり首を傾げる嵐に刀流はわずかに目を伏せる。
「…悪い、後をつけていた」
 小さく、でもはっきりと刀流は告げた。
 …刀流は考えていたことを実行したのだ。こっそりと、嵐の後をつけた。
「――…?!」
 続いた刀流の言葉に嵐は目を見開いた。
 何故! と驚きのせいか大きくなってしまった嵐の声は刀流の手のひらで塞がれた。

「…嵐は…気付いてないのか?」
「?」
 答えようにも口が塞がれていて、答えることができない。
 嵐の中で、刀流の言葉を繰り返す。
(気付く…?)
 何に、と思う。
(――霞月殿…)
 ――ふと、何かが掠めたが…嵐はあえて気付かぬ振りをした。
 刀流の手が外されると同時に、嵐はぷはっと息を吐き出す。

「…気付く?」
 嵐は切り返した。
「――何に?」
 嵐は自らの思いを言葉こえにする。…掠めた『何か』を追い払うように、言葉かたちにする。
 刀流の瞳が、揺れた。…そんな風に、嵐には思えた。
「…刀流…?」
「――嵐…」
 嵐の名を呼ぶ刀流が、少し辛そうに見えた。
「…どうしたんだ? 刀流…」
 嵐は呼びかけて、そっと刀流に触れた。

 ――…不思議だ。
 この存在刀流のことを思いだすと、いつも思う。
 本当は『刀』である刀流の人形ひとがたである姿が見えるのは数少ない。
 嵐の母親は刀流の姿を見ることはできないようだし、一族の者でも、今のところ…少なくとも嵐が知る限りでは…長しか人形をなした刀流の存在ことが見える者がいないようだった。
 自分には見えて、触れることもできるというのに…他の人には見えないのかと、嵐は不思議に思う。

「…嵐…」
 風がふいた。
 冬の冷えた空気。夜であれば尚のこと…凍えた空気。
 思わず、目を閉じる。
 刀流が何か言った、と思った。
 ただ、風の冷たさに意識を奪われた嵐はその声を聞き逃す。
「え…?」
 何、と嵐は刀流に聞き返す。
 刀流はふいに、嵐を抱き寄せる。
 兄のような刀流。家族のような刀流。抱き寄せられる抱擁は、慣れている。
 今更、照れも何もうまれない。
 風がふく。止まない。
「…刀流…?」
 刀流の心情を爪の先ほどにも知らず、嵐は刀流を見上げた。

 
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