嵐は、知らなかった。
…否。
――知ろうとしなかったのかも、しれない。
『…明日、昼間に会えるか?』
そう霞月が言った…翌日。
――闇が、世界を染めた。
冬の空。
雲越しの薄い青がゆっくりと…闇の色に染まりだす。
日は高いというのに…そのはずなのに、空が暗くなりだした。
嵐は気付かなかったが、太陽が欠け始めていたのだ。
――それは現在『日蝕』と呼ばれる現象である。
「刀流!」
嵐は姿の見えない刀流の名を半ば叫びつつ呼んだ。
母には隠処にいるよう、頼んだ。
悪霊祓いの札と、お守りと…家にある使えそうなモノ…万が一の時に、母を守れそうなモノと共に隠れているように、と。
曇るだけではなく…昼間から暗くなる、闇が広がっていく現状。
絶対におかしい、と嵐は思った。
この頃増えたようにも思える、悪霊。…悪霊が関わっているのではないだろうか。
「…嵐!」
「――嵐」
声が、二つ。
それぞれ、嵐を呼ぶ声。
一つは嵐の右後ろから。
そしてもう一つは…嵐のいる場所からは見えない前方――門の、向こう側。
呼びかけつつ右側に立ったのは、当然というべきか刀流だった。
そして、姿は見えないが…閉ざされた門の向こうから呼びかける声は。
「…霞月殿?」
刀流とほぼ同時に嵐の名を呼んだ…その声は、霞月のモノに思えた。
「――嵐」
繰り返される呼びかけ。霞月のモノと思える、声音。
――なのに、何故。
(こんなにも、禍々しいなどと感じる?)
月の下で会う人。…美しい人。――好きな、人。
その人の…霞月の声だと、嵐の耳は判断する。
――それなのに、何故。
(禍々しいなどと、思う…?)
…喜べ。霞月は昨夜の言葉通り、会いに来てくれたのだ。
霞月自身が、嵐に会うために来てくれたのだ。
なのに…何故――?
(喜びよりも、恐ろしさが勝る?)
今感じる雰囲気。…空気。
嵐はそれと似た雰囲気を――その気配を、知っていた。
…嫌というほどに、知っていた。
その空気に嵐にも、刀流にも――緊張感が高まっていく。
「…刀流!」
嵐は強く、もう一度刀流の名を呼んだ。
強い呼びかけに、刀流が人形から、本来の姿…刀へと、姿を変える。
嵐は金ともいえる輝きの刀身の刀を構えた。
「嵐…これを解いてくれ…」
声に嵐は意識せず唇を噛んだ。
(これを解く、とは…)
ぎゅっと、柄を握る力を強める。
(――もしや、結界のことか?)
嵐の父は…そして嵐も、家の周りに悪霊を阻む結界を築いていた。
母を守るために。
門の外から『解く』と表現するようなものがない。
(…これは、幻聴だ!)
嵐は自らに言い聞かせた。
自分の好きな霞月が、悪霊と関係あるはずがない。
むしろ…初めて会った時に悪霊を消していた。
悪霊を祓う様も、嵐は見ている。
―― ソ ノ 様 子 ハ
霞月が悪霊と関係があるとしても、自分のように悪霊を滅すための人だ。
―― 悪 霊 ヲ 吸 収 ス ル ヨ ウ ニ 見 エ ル
「嵐…」
繰り返される呼びかけ。…この声。
(…違う)
この声は…この、呼びかけは、悪霊が嵐を油断させるために――霞月の声を真似ているだけだ。霞月自身ではない。
この声は、悪霊が霞月の声を真似ているに違いない。
――違いない!
嵐はぐっと、歯を食いしばった。
「刀流…」
力を、と嵐は言葉にせず呟く。
嵐は門に結界を強化する言の葉を紡ぎ、踏み出した。
――空が暗くなっていく。
視界が…世界が、闇に染まる。
…日が、着々と欠けていく。
だが…嵐は今、どうして闇に染まりきっていないのか、と思った。
――全てが闇ならばよかったのに、と。
嵐は目前に立つ人を見て、思った。
目が見えないよう…世界を映さないよう――いっそ、全てが闇に染まっていればよかったのに、と。
…嵐の目前に立つ者。
――切れ長の瞳と、薄い唇。…その、均整のとれた顔立ち。
…声、ばかりでなく…。
幻視なのだろうか。
――こんなにも美しい人が…幻だというのか。
「――嵐…」
何度目かわからない呼びかけ。
…闇が、深くなっていく。
世界が、暗く…染まっていく。
それでも、嵐の目には映った。
自分が滅すと決めている悪霊――。
…その『気配』を纏う者。
――霞月の姿をした存在が柔らかく微笑んだのが、見えた。
「――刀流…」
嵐は昨日刀流が言った言葉を思いだしていた。
『…嵐は…気付いてないのか?』
幻聴だ。幻視だ。――幻覚だ。
幾度自らに言い聞かせても…嵐自身が、どこかで目前の存在が『霞月本人だ』と感じている。そう、思ってしまう自分がいる。
「――この方、は…」
昨夜、刀流は嵐を『尾行した』と言っていた。
ならば、霞月を見たはずだ。
ならば――。
「…昨日の方と、同じ方か――…?」
意識せず、声が震えた。
刀になった刀流のコエは、頭の中に直接響く。
柄を握る手に再び、力がこもった。
握り過ぎて、感覚を失いそうだ。
嵐の問いに刀流が答えるまでの、間。
長く感じた。
…現状として、実際には…決して長いなんてことは、なかったのだろうが。
戸惑うような、躊躇うような…モノを感じた。
『――ああ…』
答えは違っていてほしくて…でも予想通りで。
(――あぁ…)
――刀流は嘘をつかない。知っている。
出会ってから今まで…刀流が嵐に嘘をついたことはない。
嘘をつかれたことは、ない。
――でも、信じたくない。
そう思う嵐に…刀流は続ける。
『これは…まぎれもなく、昨日のヤツと、同じモノ』
嵐 ハ 気 付 イ テ ナ イ ノ カ ?
再度、嵐の中で刀流の声が蘇える。
――そして…。
―― ソ ノ 様 子 ハ
嵐の中で掠めた、何か…。
―― 祓 ウ ヨ リ モ 吸 収 ス ル ヨ ウ ニ …
「――お前が元凶か!!」
その時、その場に鋭い声が響いた。
対峙する存在に半ば吼えるような、声音。
嵐の背後に…複数の声と気配が近付く。
声の中には、聞き覚えのあるモノも、いくつか。
刀で悪霊を祓う一族。
――嵐の血族である、声が。