其処は、何処でもない場所。
――そして、どこでもある場所。
カゲと…それから。
皇のある、場所。
――皇――
声のような…意思のようなものが、その場を揺らした。
『皇』と呼ばれた者は、伏せていた目を開く。
切れ長の瞳と、薄い唇。…その、均整のとれた顔立ち。
皇は、美しい男と言えた。
「――急くな」
呼びかけに、皇は小さく応じる。
――皇――
今一度響く声に皇は身を起こし、髪をかき上げる。
ゆるい癖のある髪が指の合間から零れた。
「…時は近い」
光の時が…闇に覆われる時。
――日の光が、消える時。
「――時は近い。…今しばらくの間だ」
急くな、と皇はもう一度口にする。
「下がれ」
端的に、皇は言った。
響くその声は、冷ややかなモノ。
皇の声に、『ソレ』は姿を消した。
その『場』に一人になった皇は、身を横たえると瞳を閉じる。
「時が満ちる…」
小さく、呟いた。――その声を聞くものは、いない。
「闇が、世界を覆う…」
そこで一旦呟きは途切れた。
皇はゆっくりと瞬きをする。
――そして。
「―― 」
…小さく、呟いた。
・ ・ ・
「おはよう」
「おはよう」
蘭は母親に挨拶をしながらテーブルについた。
父親は既に出掛けたようだ。
空になった茶碗がテーブルに置いてある。
『ニュースをお伝えします』
刀流はソファーに腰を下ろして、つけっぱなしになっているテレビから流れるニュースを見ていた。
(…なんだか変な感じ)
普通に和んでいる刀流を見て、いつも思う。
蘭は話せるし、触れられるし…刀流は確かにそこにいるのに、母親にはその存在が見えていないのだから。
「蘭、今夜何か食べたいものある?」
蘭の母がテーブルにつきながら問う。蘭は「うーん」と唸った。
『…来週の今日、午前十時頃と予想されています』
蘭はアナウンサーの声にピクリと反応する。
思わず振り返り、テレビに注目した。
「あ、テレビ消すの忘れてた」と母は呟く。
蘭はアナウンサーの言葉に瞬きをして、次にソファーに腰を下ろしている刀流を見つめた。
特に反応らしい反応はない。
アナウンサーの言った単語にテレビに注目した蘭だったのだが、刀流の反応のなさに「あれ?」と思った。
しかし…ニュースで映像が流れた途端、刀流が目を見開いた。
ニュースで流れた映像は、数年前インドで見られた現象…皆既日蝕の様子だった。
流れる映像がどんどん暗くなり…昼間だというのに、闇がテレビ画面を支配した。
刀流が息を呑む様子が見て取れた。
『やっぱり』と蘭は思う。
過去に…一番思いだすのが辛い前世に、――嵐の手で、霞月を殺した日に起きた現象。
昼間に、世界が闇に覆われる現象…。
あれは、皆既日蝕だったのだと認識する。
皆既日蝕の日…皆既日蝕の時には、闇の力が高まる。
日の光が届かなくなり、昼間に闇が世界を支配する。
その、時間。…その、瞬間。
――闇の力が、高まる。
「……」
思わず刀流の様子を見続けてしまう蘭に、母は言った。
「蘭、時間はいいの?」
「あ…はい」
蘭は返事をすると、慌てて朝食を口に運ぶ。
味噌汁を口にする蘭は、正面にいる母の視線が自分に固定されていることを感じて、首を傾げた。
「何?」
蘭の問いかけに母は軽く自らの首を摩りながら応じる。
「ん…蘭、首のところにそんな痣あったっけ?」
母の言葉に、蘭は思わず右手で首を覆った。
痣は、初めて悪霊に襲われた…見つかった時、獲物の印として、蘭の首をぐるりと一周するように赤い線が…痣が、刻まれていた。
「なんか…赤い、線…みたいな…」
母の呟きに、なんと応じるべきか迷い、蘭は「そう?」と曖昧に笑った。
刀流はそんな蘭と母の様子を…視線はテレビに釘付けのままだったが…気にしていた。
「いってきます」
玄関でそう言って、蘭は学校に向かう。
刀流は当然のように、蘭の後に続いた。
蘭が『刀流』を思いだしてからずっと…ほぼ、同じ時間を過ごしている。
「――痣…」
「え?」
刀流の呟きがよく聞こえなくて、思わず聞き返した。
「痣が…濃いな。…濃く、なったな」
刀流はそっと蘭の顎を持ち上げて、首にある痣を見つめた。
刀流の瞳に陰りが宿る。
そんな刀流の瞳の陰りに気付かず、顎を持ち上げられたまま蘭は「どうしたの?」と問いかけようとした。
しかし、顎を持ち上げられている現状でうまく言葉にならない。
「な…」
何? と問いかけようとした蘭だったが――そういえば刀流の姿は他の人には見えていないはずで、蘭の現状は一人で空を見上げているように見えるのだろうか…などと思った。
ここで「何?」にしろ「どうしたの?」にしろ、問いかける様子を見られたら変な人かも、とも思う。
思考と、空に向けた視線とで蘭は気付かなかった。
「――ごめんな」
小さな、謝罪の言葉を。
「ん?」
蘭は刀流が何かを呟いた気がして、聞き返す。
「……」
返ってきたのは沈黙。
「…刀流…?」
問いかける蘭に、刀流は突如触れた。
「?! と、刀流?!」
刀流は、蘭の首筋に唇で触れた。
現状に気付いた蘭は赤面する。
周りの人に注目されるかもしれないことなど頭からすっぽ抜けた。
刀流は悪戯っぽい笑みを、蘭に口付けた唇に浮かべる。
「はははっ!」
「刀流!」
刀流は楽しそうに笑い、蘭は半ば怒鳴るように名を呼んだ。
「蘭」
べしべしとひとしきり蘭に叩かれた後、刀流は呼びかける。
口調が変わった刀流に気付き、蘭は刀流を叩く手を止めた。
「来週…日蝕が起こるらしいな」
蘭はゆるりと瞬いて、小さく「うん」と頷く。
「あれ…日蝕って言うんだな」
刀流は囁くように言う。蘭は、何も言わない。…言えない。
「昼間に、闇が訪れる…闇が、日を覆う…」
蘭は思わず足を止めてしまっていた。
刀流がそっと蘭の背に触れ、足を進めるように促す。
「――闇の力で覆われる…」
蘭は目を伏せた。意識せず、歩みが遅くなる。
刀流は蘭の瞳を見つめ、言った。
「多分…前以上に悪霊が蘭を襲うようになる」
蘭は小さく頷く。
「――オレを使い…闘え」
「…うん」
日蝕が近付いていた。