『泣くことはない』
あの人は、言った。
『お前は、嵐ではないのだから』
――そう、あの人は言った――。
『――蘭』
刀流の意識が…声なきコエが、蘭の頭の中に響く。
蘭に握られていた刀…刀流は、人形を成した。
「…なんだか…呆気なかったな…」
人形を成した刀流の声は、鼓膜を通して伝わっていた。…だが、応じられない。
蘭は今も歯を食いしばったままだった。
「…蘭?」
応じない蘭に、刀流は視線を落とす。
蘭の顔を覗き込み、わずかに目を見開いた。
歯を食いしばったままの蘭を抱きしめる。
「――蘭」
刀流は繰り返し、蘭の名を呼んだ。
「…蘭…」
刀流に抱きしめられた蘭は、刀流の胸元に拳を当てる。
震える拳を、刀流へと打ちつける。
刀流はそんな蘭の拳を、黙ったまま受けた。
呼びかける以上には声をかけることなく、ただ腕の中の蘭を抱きとめ、見つめる。
刀流の胸元を殴っていた蘭はぎゅっと目を閉じて、額を刀流に押しつけた。
ぎゅっと目を閉じたまま、唇を噛む。
「……っ」
泣かない。――泣くことはない。
自分は『蘭』であって…霞月を好きになった――霞月に心奪われた『嵐』ではないのだから。
・ ・ ・
もう…ずっと前のことのようにも思えるけれど、まだ一日――昨日のことだ。
蘭は夢の中で――眠りの中で…。
…霞月に会った。
冷たい手が、蘭の頬に触れた。
「お前は…嵐――嵐だった、者だな」
皇は、霞月で。――変わらず美しい、霞月で。
「今の名は…?」
霞月の問いに蘭は瞬く。
蘭の頬に触れる冷たい手…指先を感じながら、「蘭」と告げた。
応じた蘭に霞月は目を細める。
「蘭…か…」
そのまま、口元に笑みを刻んだ。
優しい笑みと、柔らかな声音と。
…あぁ、と蘭は思った。
霞月は…変わっていない、と――そう思った。
「あの…嵐の刀は、お前の手元にあるのか?」
続いた問いかけに蘭は一度呼吸が止まったように思えた。
――嵐の刀。それは…。
「…刀流、ですか…?」
聞き返す声が、意識せず震える。
蘭の問いかけに頷くと、霞月は蘭の頬に触れていた手を外した。
「そう…金色の、魂の宿った刀」
淡々とした声音。切れ長の目を細め、霞月は続ける。
「…私の体を斬った、刀」
胸元に手を当て、自らを示し…言い切った霞月に――その内容に、蘭の脳裏に『あの日』が蘇える。
霞月の体に、刀を…刀流を突き立てた。
溢れる血。流れる、霞月の命。
身に伸しかかる、霞月の体…。尽きていく、命の灯火。
蘭は意識せず、俯いた。
…霞月の体に刀流を突き立て、殺したのは自分で――。
(――刀の持ち主は、自分だった…)
「…違う」
突然、霞月は言った。
え、と蘭は霞月を見つめる。
「持ち主は、嵐だった。…お前ではない」
続いた霞月の言葉に蘭は瞬きをする。
――蘭が考えていたことが、霞月には分かったのであろうか。
…声にしなかった…そのはずだ。けれど…聞こえたのだろうか。
――蘭の思考が。
そんな蘭の思いをよそに、霞月は言葉を紡いだ。
「…あの刀を持つお前に、頼みがある」
霞月は蘭に触れ、瞳を閉じた。
――綺麗だ、と蘭は再度思う。
「『私』を滅してくれ」
瞳を開くと同時に、霞月は蘭に囁いた。
蘭に触れる指先。…触れるのは、冷たい感触。
――蘭の呼吸が一瞬止まったような気がした。
頭が真っ白になって…やっと言葉を理解しても、すぐに頷くことができない。
何も言わずにいる蘭に、霞月は更に言葉を紡ぐ。
「…私の体を斬った刀を持つ娘。――刀の、使い手」
静かに、言葉が続く。
…嫌だ、と言いそうになった。
嫌だ、と――心の中で思った。
――また、この人を斬るのは嫌だ、と…そう、思った。
だが。
「…嵐『だった』娘」
視線が、ぶつかる。
霞月の瞳の中に自分が…蘭の姿が、映っている。
「お前は『生まれ変わった』。――お前は、嵐ではない」
淡々と霞月は言う。
「…だから――『また』ではない」
前世の悲しみが、蘭の中で蘇えった。
自分の手で、自分が好きだった人を殺した…自分の手で、自分を想ってくれた人の命を絶った悲しみを。
我知らず、涙がこぼれる。
「……」
霞月は涙を流す蘭を見ていた。――だが、嵐にしたように涙を拭ったりはしない。
「泣くことはない」
霞月は淡々と言葉を続ける。
「お前は、嵐ではないのだから」
――それは、いっそ拒絶とも取れる口調で。
蘭の涙は頬から顎の下へと伝う。
「過去に私を斬った刀の主よ。――どうか、私の願いを叶えてくれ」
蘭は言葉を紡ごうとしたが、声がのどに貼りついて、うまく言葉にならない。
苦しげに目を閉じる蘭に、霞月は言葉を紡ぐ。
「――かつては、嵐に望んだ」
静かな声音に、蘭は目を開いた。その瞳にはうっすらと涙が浮かんだままだ。
霞月はそんな蘭から目を逸らすように、目を伏せる。
まるで独白のように、呟いた。
「――母に生きよと言われ、生き永らえ…
父には、かつての名誉を取り戻すようにと言われ…
望まないまま、言われるままに過ごしていた」
答えなど求めていないのか、霞月は淡々と言葉を紡ぐ。
「…取り戻した栄光は長くは続かず、衰え、落ちぶれ…
父の世への恨み辛みを引き継いだ。
――皇としての責を、私が」
霞月の言葉を聞きながら…蘭はなぜか、嵐を思った。
嵐の父が望み――悪霊を滅すための刀を望んだ。
母を守るためにも――ただ一人の肉親を、守るための術を望んだ。
確かに嵐も望んでいた。
…けれど、嵐だけの望みではなく…誰かの望みと重ねながら生きていた、嵐。
――どこか他者が望む道に沿うように生きていたかもしれない、嵐。
霞月と嵐とが、似ているように思えた。
霞月のほうが更に『望まなかった』ように思えるが。
そう思いながら――蘭は「あぁ」と思う。
――確かに蘭は嵐だった。
…嵐『だった』。
嵐のことは過去のことで…確かに自分であったけれど、遠い誰かのように感じている、現状。
――蘭は確かに『嵐ではない』。
霞月の言うとおり…あえて言われるでもないままに、蘭は蘭でしかない。
「皇として過ごし…嵐と出逢い…逢瀬の中で、『霞月』の名を思いだした。
嵐は私の唯一…無比の、存在」
淡々とした声音は続く。そこに宿るのは甘い感情のはずなのに、響くのは寂しげなもの。
「私は、嵐に望んだ。
人としての最期を…嵐と同じ『人』として。
――最期の記憶も温もりも、嵐で終わらせて…全て、終わらせたかった。
それが、私の望みだった――」
望み『だった』という言葉に、意識せず俯いていた蘭は顔を上げた。
視線を、霞月へと向ける。
「最期の記憶は嵐だけでよかった。
――蘇える気など、なかった」
続いた言葉…告白に、蘭は瞬いた。
今までただ聞いていたが…思わず口を開く。
「…望まなかった?」
蘭の問いかけに霞月は吐息のように「あぁ」と応じた。
「…今度は悪霊等の望みで、此処にいる。
――私の望みは…嵐の記憶と共に、消えること」
そこまで言うと霞月は伏せていた目を開ける。
真っ直ぐに、蘭を見つめた。
「――私の願いを、叶えてくれ」
霞月は、繰り返す。
「過去に嵐だった――お前に…叶えてほしい」
願う、乞う――言葉。…祈るような声音。
蘭は唇を噛んだ。
蘇える――遠い、過去の声。
『…徒の刀で私を死なせるつもりか――?!』
…望まなかったという霞月の望み。…願い。叫び。
『――心奪われていたのは、私も――』
血のニオイ。手に残った、感触。重み。
『――嵐…』
…逝く間際の、耳に残った小さな声。
――嵐だけを望んだという、霞月の囁き。
俯くと、目から溢れた涙が頬を伝った。
蘭は乱暴に、その涙を拭う。
うまく声にできなかったから…ただ、頷いた。
息を吐き出す。
「…たしは…ではない…」
――私は、嵐ではない。
それは、確認。
「…わ…うま…った…」
――私は、生まれ変わった。
それは、自らに言い聞かせる言葉。
蘭は霞月の言葉を、繰り返す。
「――私は…必ず貴方を滅します、皇よ」
そんな蘭の言葉に、霞月はゆるりと瞬き、そして…口元に笑みを刻んだ。
――それは嵐に向けたモノと同じ微笑み。
…そして…。
「明日…悪霊等をこの身に集めよう。…お前はただ、いつものように斬ればよい」
こくり、と蘭は頷いた。
…また、涙がこぼれそうになった。浅く息を吐き、堪える。
「――お前は、嵐ではない」
俯く蘭の様子に、霞月は繰り返した。
再度繰り返されたその言葉に、蘭の胸に重しが載ったような気がして、意識せず胸元を掴む。
その言葉は、蘭を拒絶する言葉だと思ったから。
「だから…泣かずともよいのだ、蘭」
――だが、違った。
声に宿るモノは、拒否や拒絶ではなかった。
霞月は蘭へと手を伸ばす。
頬に触れる手は、冷たい。…けれど、蘭を見つめる目は穏やかで――。
霞月は、蘭を抱きしめた。
…まるで、風に抱かれるような抱擁。
「――未来あるお前は…幸福で…」
――そして蘭は、眠りから覚めた。