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其の二十四−一

『泣くことはない』
あの人は、言った。
『お前は、嵐ではないのだから』
――そう、あの人は言った――。

 

『――蘭』

 刀流の意識が…声なきコエが、蘭の頭の中に響く。
 蘭に握られていた刀…刀流は、人形ひとがたを成した。
「…なんだか…呆気なかったな…」
 人形を成した刀流の声は、鼓膜を通して伝わっていた。…だが、応じられない。
 蘭は今も歯を食いしばったままだった。
「…蘭?」
 応じない蘭に、刀流は視線を落とす。
 蘭の顔を覗き込み、わずかに目を見開いた。
 歯を食いしばったままの蘭を抱きしめる。
「――蘭」
 刀流は繰り返し、蘭の名を呼んだ。
「…蘭…」
 刀流に抱きしめられた蘭は、刀流の胸元に拳を当てる。
 震える拳を、刀流へと打ちつける。
 刀流はそんな蘭の拳を、黙ったまま受けた。
 呼びかける以上には声をかけることなく、ただ腕の中の蘭を抱きとめ、見つめる。
 刀流の胸元を殴っていた蘭はぎゅっと目を閉じて、額を刀流に押しつけた。
 ぎゅっと目を閉じたまま、唇を噛む。
「……っ」
 泣かない。――泣くことはない。
 自分は『蘭』であって…霞月を好きになった――霞月に心奪われた『嵐』ではないのだから。

・ ・ ・

 もう…ずっと前のことのようにも思えるけれど、まだ一日――昨日のことだ。
 蘭は夢の中で――眠りの中で…。

 …霞月に会った。

 冷たい手が、蘭の頬に触れた。
「お前は…嵐――嵐だった、者だな」
 皇は、霞月で。――変わらず美しい、霞月で。
「今の名は…?」
 霞月の問いに蘭は瞬く。
 蘭の頬に触れる冷たい手…指先を感じながら、「蘭」と告げた。
 応じた蘭に霞月は目を細める。
「蘭…か…」
 そのまま、口元に笑みを刻んだ。
 優しい笑みと、柔らかな声音と。
 …あぁ、と蘭は思った。
 霞月は…変わっていない、と――そう思った。

「あの…嵐の刀は、お前の手元にあるのか?」
 続いた問いかけに蘭は一度呼吸が止まったように思えた。
 ――嵐の刀。それは…。
「…刀流、ですか…?」
 聞き返す声が、意識せず震える。
 蘭の問いかけに頷くと、霞月は蘭の頬に触れていた手を外した。

「そう…金色の、魂の宿った刀」
 淡々とした声音。切れ長の目を細め、霞月は続ける。

「…私の体を斬った、刀」

 胸元に手を当て、自らを示し…言い切った霞月に――その内容に、蘭の脳裏に『あの日』が蘇える。
 霞月の体に、刀を…刀流を突き立てた。
 溢れる血。流れる、霞月の命。
 身に伸しかかる、霞月の体…。尽きていく、命の灯火ともしび
 蘭は意識せず、俯いた。
 …霞月の体に刀流を突き立て、殺したのは自分で――。
(――の持ち主は、自分だった…)

「…違う」

 突然、霞月は言った。
 え、と蘭は霞月を見つめる。
「持ち主は、嵐だった。…お前ではない」
 続いた霞月の言葉に蘭は瞬きをする。
 ――蘭が考えていたことが、霞月には分かったのであろうか。
 …声にしなかった…そのはずだ。けれど…聞こえたのだろうか。 ――蘭の思考こえが。
 そんな蘭の思いをよそに、霞月は言葉を紡いだ。
「…あの刀を持つお前に、頼みがある」
 霞月は蘭に触れ、瞳を閉じた。
 ――綺麗だ、と蘭は再度思う。

「『私』を滅してくれ」

 瞳を開くと同時に、霞月は蘭に囁いた。
 蘭に触れる指先。…触れるのは、冷たい感触。
 ――蘭の呼吸が一瞬止まったような気がした。
 頭が真っ白になって…やっと言葉を理解しても、すぐに頷くことができない。
 何も言わずにいる蘭に、霞月は更に言葉を紡ぐ。
「…私の体を斬った刀を持つ娘。――刀の、使い手」
 静かに、言葉が続く。
 …嫌だ、と言いそうになった。
 嫌だ、と――心の中で思った。
 ――また、この人を斬るのは嫌だ、と…そう、思った。
 だが。

「…嵐『だった』娘」
 視線が、ぶつかる。
 霞月の瞳の中に自分が…蘭の姿が、映っている。

「お前は『生まれ変わった』。――お前は、嵐ではない」
 淡々と霞月は言う。
「…だから――『また』ではない」

 前世過去の悲しみが、蘭の中で蘇えった。
 自分の手で、自分が好きだった人を殺した…自分の手で、自分を想ってくれた人の命を絶った悲しみを。
 我知らず、涙がこぼれる。
「……」
 霞月は涙を流す蘭を見ていた。――だが、嵐にしたように涙を拭ったりはしない。
「泣くことはない」
 霞月は淡々と言葉を続ける。
「お前は、嵐ではないのだから」
 ――それは、いっそ拒絶とも取れる口調で。
 蘭の涙は頬から顎の下へと伝う。

「過去に私を斬った刀の主よ。――どうか、私の願いを叶えてくれ」
 蘭は言葉を紡ごうとしたが、声がのどに貼りついて、うまく言葉にならない。
 苦しげに目を閉じる蘭に、霞月は言葉を紡ぐ。
「――かつては、嵐に望んだ」
 静かな声音に、蘭は目を開いた。その瞳にはうっすらと涙が浮かんだままだ。
 霞月はそんな蘭から目を逸らすように、目を伏せる。
 まるで独白のように、呟いた。

「――母に生きよと言われ、生き永らえ…
 父には、かつての名誉を取り戻すようにと言われ…
 望まないまま、言われるままに過ごしていた」
 答えなど求めていないのか、霞月は淡々と言葉を紡ぐ。
「…取り戻した栄光は長くは続かず、衰え、落ちぶれ…
 父の世への恨み辛みを引き継いだ。
 ――皇としての責を、私が」

 霞月の言葉を聞きながら…蘭はなぜか、嵐を思った。
 嵐の父が望み――悪霊を滅すための刀を望んだ。
 母を守るためにも――ただ一人の肉親を、守るための術を望んだ。
 確かに嵐も望んでいた。
 …けれど、嵐だけの望みではなく…誰かの望みと重ねながら生きていた、嵐。
 ――どこか他者が望む道に沿うように生きていたかもしれない、嵐。

 霞月と嵐とが、似ているように思えた。
 霞月のほうが更により『望まなかった』ように思えるが。
 そう思いながら――蘭は「あぁ」と思う。
 ――確かに蘭は嵐だった。
 …嵐『だった』。
 嵐のことは過去のことで…確かに自分であったけれど、遠い誰か他人のように感じている、現状。
 ――蘭は確かに『嵐ではない』。
 霞月の言うとおり…あえて言われるでもないままに、蘭は蘭でしかない。

「皇として過ごし…嵐と出逢い…逢瀬の中で、『霞月』人としての名を思いだした。
 嵐は私の唯一…無比の、存在」
 淡々とした声音は続く。そこに宿るのは甘い感情のはずなのに、響くのは寂しげなもの。
「私は、嵐に望んだ。
 人としての最期を…嵐と同じ『人』として。
 ――最期の記憶も温もりも、嵐で終わらせて…全て、終わらせたかった。
 それが、私の望みだった――」
 望み『だった』という言葉に、意識せず俯いていた蘭は顔を上げた。
 視線を、霞月へと向ける。

「最期の記憶は嵐だけでよかった。
 ――蘇える気など、なかった」
 続いた言葉…告白に、蘭は瞬いた。
 今までただ聞いていたが…思わず口を開く。

「…望まなかった?」
 蘭の問いかけに霞月は吐息のように「あぁ」と応じた。
「…今度は悪霊あれ等の望みで、此処にいる。
 ――私の望みは…嵐の記憶と共に、消えること」
 そこまで言うと霞月は伏せていた目を開ける。
 真っ直ぐに、蘭を見つめた。

「――私の願いを、叶えてくれ」
 霞月は、繰り返す。
「過去に嵐だった――お前に…叶えてほしい」
 願う、乞う――言葉。…祈るような声音。

 蘭は唇を噛んだ。
 蘇える――遠い、過去の声。
『…ただの刀で私を死なせるつもりか――?!』
 …望まなかったという霞月の望み。…願い。叫び。

『――心奪われていたのは、私も――』
 血のニオイ。手に残った、感触。重み。
『――嵐…』
 …逝く間際の、耳に残った小さな声。
 ――嵐だけを望んだという、霞月の囁き。

 俯くと、目から溢れた涙が頬を伝った。
 蘭は乱暴に、その涙を拭う。
 うまく声にできなかったから…ただ、頷いた。

 息を吐き出す。
「…たしは…ではない…」
 ――私は、嵐ではない。
 それは、確認。
「…わ…うま…った…」
 ――私は、生まれ変わった。
 それは、自らに言い聞かせる言葉。
 蘭は霞月の言葉を、繰り返す。

「――私は…必ず貴方を滅します、皇よ」
 そんな蘭の言葉に、霞月はゆるりと瞬き、そして…口元に笑みを刻んだ。
 ――それは嵐に向けたモノと同じ微笑み。

 …そして…。

「明日…悪霊あれ等をこの身に集めよう。…お前はただ、いつものように斬ればよい」
 こくり、と蘭は頷いた。
 …また、涙がこぼれそうになった。浅く息を吐き、堪える。
「――お前は、嵐ではない」
 俯く蘭の様子に、霞月は繰り返した。
 再度繰り返されたその言葉に、蘭の胸に重しが載ったような気がして、意識せず胸元を掴む。
 その言葉は、自分を拒絶する言葉だと思ったから。
「だから…泣かずともよいのだ、蘭」
 ――だが、違った。
 そこに宿るモノは、拒否や拒絶ではなかった。
 霞月は蘭へと手を伸ばす。
 頬に触れる手は、冷たい。…けれど、蘭を見つめる目は穏やかで――。
 霞月は、蘭を抱きしめた。
 …まるで、風に抱かれるような抱擁。

「――未来さきあるお前は…幸福で…」

 ――そして蘭は、眠りから覚めた。

 
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