「…刀流…」
ただ、抱きとめる刀流に甘えるように、その胸に額を押し当てていた蘭は、静かにその名を呼んだ。
――自分は『蘭』であり、『嵐』ではない。
――泣く必要はない。
自分の中で霞月の言葉を繰り返す。
「――落ち着いたか?」
名を呼ばれた刀流は、応じるように蘭の髪を柔らかく撫でながら言った。
蘭は刀流の胸に額を当てたまま、小さく頷く。…そこに、心音はない。
頷いた蘭に刀流は「そっか」と刀流は細く息を吐いた。
それはもしかしたら、安堵のため息だったかもしれない。
『落ち着いた』と頷きながらも離れない蘭を、刀流もまた放さない。
抱きとめる…抱きしめる腕の力を緩めながら、放しはしない。
「――刀流は…」
蘭は刀流の胸に顔を埋めたまま口を開いた。
「…ん?」
「刀流は…『嵐』の刀だったんでしょ…?」
蘭の確認するような言葉に、『突然何を言うのか』と思わなくもなかったが、刀流は「そうだな」と答える。
「――私は、嵐じゃないよ。…蘭だよ」
その言葉に、刀流は瞬きをした。
――何を言いたいのだろうか、と…刀流は沈黙を続ける。
沈黙したままの刀流に、蘭はぎゅっと目を閉じた。
――蘭は嵐ではない。
嵐としての過去は…確かに蘭は嵐であったと思える…わかるのに、遠い他者の、映画か何かを見るようなモノで…。
…蘭は、嵐ではない。
霞月は嵐しか求めていなかった。
蘭もまた…嵐のように霞月を求めなかった。――求めることは、できなかった。
けれど、刀流は――…。
「…嵐じゃないけど――」
蘭は意識せず、ぎゅっと拳を作る。
「…私は、蘭だけど――」
蘭は顔を上げた。
緊張のためか、顔がこわばっている。
一度目を伏せ、意を決したように息を吐き出した。
「…一緒に、いてくれる?」
――蘭の言葉に刀流は固まった。
蘭の口から零れたのは、刀流的にかなり想定外の発言だったから。
刀流は忙しげに瞬く。
どうにか、蘭の言葉を自分の中で整理する。
そして、蘭の言葉の意味をきちんと理解すると――強く、抱きしめた。
「オレが惚れたのは、魂だ。…嵐の魂も、蘭の魂も…一緒だ」
刀流は、どうして蘭がそんなことを言い出したのか分からない。
けれど、元から離れるつもりはなかったのだ。
蘭に問われるまでもなく――ずっと、一緒にいるつもりだったのだ。
この刀が滅びるまで…この魂と――この魂を持つ者と。
たとえ男だろうと、女であろうと…『刀流』を見つけた存在である限り…刀流の惹かれた魂を持つ者である限り、離れるつもりなんてなかった。
今も――そのつもりは全くない。
「蘭が離れろって言っても…離れるつもりはなかったよ。――今も、離れるつもりはない」
淡々と言い切った刀流に…今も強く抱きしめられながら、蘭は今更ながら赤面していた。
(な…なんか…)
告白されているようではないか、と思った。
――そういえば蘭として、初めて刀流と出会った時…自分は一応、「付き合って」とか言われていたりした…。
それもまた思いだして、蘭は更に顔を赤く染める。
「…蘭?」
何やら先程までと様子が違う…と感じた刀流は蘭の顔を覗き込んだ。
…刀流の腕の中には、これ以上赤くなりそうもないほど赤い蘭の顔があった。
「……」
「…ぷっ」
沈黙したままの蘭に刀流は吹きだす。
「――そんな、笑わなくても…」
蘭は『刀流に抱きしめられている』という現状にも今更恥ずかしくなってきてしまった。
刀流は笑いつつも、蘭を開放する様子はない。
(あ〜っ…早く、赤いの治まって〜っ)
蘭は心の中で半ば叫んだ。ぐるぐる考え、言葉を紡ぐ。
「じゅ、授業に戻らなくちゃ!!」
とりあえずこの現状から逃れようと、蘭は刀流にそう提案した。
「…あぁ、そうか…」
大抵ふざけている刀流だが、『学業は励みましょう』という考えの持ち主だったので、すぐに頷いた。
――頷き、納得したようだが、なかなか蘭を抱きしめる腕を緩めない。
「…刀流…」
蘭の「そろそろ放してくれないか」という意味合いでの呼び掛けに、刀流は「もうちょっと」と再び腕の力を強めた。
(う〜…っ!)
そろそろ解放してくれ、と心の中で叫ぶ。
――そして。
今まで蘭を抱きしめていた刀流は、突然蘭を抱き上げた。
別の意味で叫びそうになった蘭である。
突然抱き上げられれば、誰でも驚くとは思うが。
「…痣、消えたな」
蘭の首を見て、刀流は小さく呟いた。
しばし抱き上げられた混乱でその言葉が届かなかった蘭だが…届いて理解すると、「え?」と声を漏らす。
原因となる悪霊が消えたからか…蘭の首から真っ直ぐな赤い線の痣は消えていた。
刀流は嬉しそうに目を細める。
「これで悪霊に狙われる可能性は低い、っと」
続いた言葉に蘭は瞬いた。
「…『低い』の? ないんじゃなくて?」
蘭の問いかけに刀流は曖昧な笑みを浮かべて応じる。
「悪霊は…『負の感情』だからな。この世から負の感情が消えない限り、『蘭が絶対襲われなくなる!』…とは、言えない」
「ごめんな」と謝罪する刀流になぜ謝るのだろうか、と思いつつも「そっか」と蘭は頷いた。
――いい加減、放してくれないだろうか…とか思いながら。
「ま、オレがついてれば大抵の奴は寄り付かせない。大丈夫だ」
にこりと笑う刀流に「うん」と応じる。
――そろそろ下ろしてくれないだろうか、とか思いながら。
ようやく刀流が抱き上げていた蘭を下ろして、その腕から解放されて…。
刀流の築いた異空間から戻って、窓の外を眺めて――。
…日蝕が終わり、光が戻っていく光景を眺め、『終わったのか』と蘭は思った。
・ ・ ・
――まだ、もうしばらく霞月を思って胸が痛くなりそうだった。
けれど、刀流は共にいると言ってくれた。
――離れるつもりはない、とも。
蘭はそっと視線を落とした。
隣に立つ、刀流。…他の誰かに見えなくても――確かにある、存在。
蘭は刀流の手にそっと触れた。ほんの少しだけ指を絡める。
刀流は一度驚いたような素振りを見せたが、次の瞬間には頬笑みを浮かべ、蘭が刀流に触れている手…指先を掬うように持ち上げた。
刀流の動向を見守る蘭と目が合うと、一瞬ニヤリと笑う。
そのままそっと、口付けをした。
蘭の右手…その指先に。
蘭はまたもや急激に赤面した。…気のせいか、手も指先も赤い。
蘭は振り払うことはなかったが、おずおずと手を引っ込めた。
急いで教室に向かって足を進める。
蘭の様子に刀流は笑った。そして当然、蘭に続いて足を進める。
二人は共に歩き出した。
そしてこれからも共に、歩いていく。
TO−RU<完>
2003年 2月20日(木)【初版完成】
2011年 5月27日(金)【訂正/改定完成】