ざわざわと賑やかな市場。
必要な物…主に食糧…を買ったが、ループルはぶらぶらと他の店も見て回る。
特に欲しいものはなかったが、一人で旅をしているループルは時たま、『他人』という存在が恋しい様な気がするのだ。
ネックレス、リングなどの装飾品。シャツ、ズボン、スカートなどの衣類。
「――あ」
もうすぐで市場が終わる…という頃にループルは心引かれる看板を目にした。
風呂屋である。
ここセイジェルは乾燥した気候のため、毎日湯を浴びることをしなくとも支障はない。
――支障はないが…かなり久々であり、かなり心引かれる。
お金は、まだあった。
(入っちゃえ!)
ループルは嬉々として、風呂屋に入った。
柔らかな湿気がその場に満ちていた。体の隅々まで洗い、泡を洗い流す。
足先から風呂へと浸かる。
「…ふへー…」
広々とした風呂に入って思わず声が漏れた。
ため息と共に、毛穴から汚ればかりでなく疲労感まで抜けていく気がする。
ループルは思わず「へへ…」と笑った。こんな広い風呂を風呂をのんびり楽しめるなんて、贅沢だなぁ、なんて思う。
体に水分が吸収されていく…そんな感覚がする。
(気持ちいいなぁ…)
もう一度体を洗おうかな、とループルは考え、風呂からあがった。
「うぁーっ!!」
泡で体を包み込みこんだ、ループルの横で声が響く。
「…」
発信源をチラリと見つめた。
どうもふざけて走り回っていた女の子が、滑って転んだらしい。
「…大丈夫?」
ループルは声をかける。泡だらけだった手を清めて、立ち上がらせた。大粒の涙をこぼしているが、怪我はないようだ。
女の子の泣き声に「すみません!」と、一人の女性がループルに声をかける。
「おかあさぁん」
「もう…ふざけて走り回るからでしょ」
その女性は、女の子の母親らしい。
女の子をしかりながらも、「怪我はないわね…」と言いながらほっと、小さく息を吐き出した。
「ご迷惑をおかけして…」
ループルはヒラヒラと手を振りながら「いや、別に」と言うと、母親は頭を下げた。
「もう、出ましょうか」
母親はまだ半べそをかいている女の子を優しくなでて、ループルにもう一度頭を下げる。
「いつまでも泣いてるとおにいちゃんにまた笑われちゃうぞ」
ループルはそんな母親の声を聞いていた。
「にいちゃ…に?」
応じる女の子。そんな…親子の会話を。
「そう。「セレナがまた泣いてる」って」
会話を聞きながらループルはザバッと、頭から思い切り湯をかぶった。
今の親子がループル以外の最後の利用者だったらしく広い風呂は貸しきり状態になる。
再び、風呂に入った。
「オカアサン」
湯に浸かりながらループルは小さく言った。
「オニイチャン」
今度は瞳を閉じて、そう呟く。
ポタリ、ポタリと髪から水滴が落ちた。目元を覆い、その音を聞く。
目元を覆う手…その左右の手の甲と、その手によって目元と共に隠された額…そして心臓の上に当たる場所に、何か痣のような…模様のようなものがある。
柔らかな湿気が、どこから巡ってきた風に揺らめいた。
「…ありがと」
瞳を閉じたまま、ループルは呟く。
ループルは、過去を思いだしていた。
* * *
それは『過去』。戻らないもの。
…それは『記憶』。――夢にも似た、現実。
あれはまだ、幼い頃。…ループルが幾つであったのかわからないけれど。
――通常と変わらぬ一日が始まろうとした…始まろうとしていた、朝。
突然の惨劇だった。
ループルは胸がムカムカするようなものを感じ、眠りから覚めた。
――空はわずかに赤く染まりだす。もうすぐ、日の出。
空気は冷たく気持ちいいといえる。
なのに、どうして…。
ループルは息を吸った。…途端、鼻を衝くニオイ。
いい匂いとはいえなかった。むしろ、吐き気を催す臭いである。
これが胸のムカムカする原因か、などとループルは思いながら、起き上がる。
扉を開いた。
――まずは、むせ返るほどの匂い。
そして闇に慣れた瞳に映った情景に、ループルは呼吸を忘れた。
歩み寄ってゆっくりとソレに触れる。ベタリと手のひらに広がる液体。ソレはまだ、少しだけ温かい。けれど…。
『…な…ん…で…』
優しい香りのした母。
厳しくて、強い父。
少し意地悪な兄。
『――なんで…』
悲鳴が上がった。
『!』
ループルは外に飛び出す。
心臓が、ドクン、ドクンといっそ煩わしいほどに鳴る。
日の出前とは言え、働き始めている人はすでに働いていて。…働いているはずで。
なのに。
ループルの瞳に映ったのは、倒れた人々。
自分以外は全て…自分以外の人間は、全て…物言わぬ『モノ』となって…皆、染まっていた…。
『――あ…』
自分以外の人間は、全て骸となって…。
『…あ…』
骸は、血に染まっていた。
…そして。
『――あああああああっっ』
――ループルの世界が、赤に染まった。
血の匂いと共に、ループルの叫びが風の中に散る。
これは夢なのだ、と。早く…早く目覚めろ、と。
――そう、思うのに。そう、願って叫び続けるのに。
…その声に応じるものは、ない。
ただ――。
フワリ、と風が吹く。
目覚めよと叫び、絶望の刻まれたループルの瞳に、一人の男が映った。
『……』
その男は語らない。
長い髪。色は、深い黒。吸い込まれてしまいそうな…漆黒。
そして、男は濡れていた。
その土地の人々と同様に。…ループルの家族と同様に。
赤く、血の色に染まっていた。
ただ、違うのは――。
『…な…ん…で…』
その男が、生きているということ。
――その男が…。
『――なんで…』
ループルは、直感する。その男が、土地の人々を骸に変え…。
『――なんで…!!!』
ループルだけを、骸に変えなかった。
風が吹く。荒々しい、風が。
『…なんで!!!』
ループルの叫びに、男は唇をわずかに歪めた。
――そして。
『…どうして…!!!』
男は、姿を消した。
ループルは走った。
早く…早く目を覚ませ、と…そう、思いながら。
これは夢だと。骸の転がる里など…嘘で、幻で――悪夢だと。
ループルは走った。
誰か、自分以外に生きている人はいないのか、と。
…日が昇る。朝日が、世界を闇から拭う。
そんな中、ループルは…骸と、血の香りと…
『ああああああっっっ!!!』
自分以外の何もない沈黙の中に、ただ一人取り残された。
* * *
バシャン、と大きく音をたててループルは湯面を叩いた。
――そのせい、だろうか。ループルはそれ以来の記憶がない。
…いや、曖昧だ、といったほうが正しいか。
いつからの記憶があるのかも、自分自身でよくわからない。
気づけば『風』を呼び、操ることが…『力』を使えるようになっていた。
ループルが覚えている唯一の『過去』が。…唯一の『記憶』が。
自分以外の土地の人々が惨殺された、というものだった。
――そのせい、だからだ。
ループルは一人で旅をしている。
…帰る場所などないから。
あの男に、奪われてしまったから。
ループルは風呂からあがり、体を拭いた。
衣類を身につけ、サジフェスを額に着ける。
ループルは瞳を閉じた。そしてキュ、と唇を噛んだ。
風呂屋から出ると、日は傾き始めている。
(オカアサン…オトウサン…)
風に、ループルの纏うマントがはためく。
(オニイチャン…)
まだ、あの男に会っていない。
(…まだ)
おっとりした動作の合うループルの瞳に険しい光が宿る。
(仇を、かえしてない)
だから、旅をしている。
この悲しみや憎しみを晴らすために。