(…厄日だ…)
そう言わずして、なんと言おう?
財布は奪われ、エルファは奪われ…腹の立つ男(河童禿げ)に遭遇し――自分の財布とエルファを奪った少年からは最終的に何も取り返すことができなかった。
財布は…お金は、そう簡単に諦められるほど安い額ではなかったが…前向きに考えれば、稼げばいい。それから、少しとはいえまだ手元にある。
――しかし…エルファは。
「…は、ぁ…」
こぼれるのはため息ばかり。未だ衝撃状態から抜け出せないループルである。
「――はぁ…」
エルファをいつから持っているのか自身でわかってないが、『記憶』が途切れ途切れであるループルの、唯一の過去の手がかりだったというのに…。
それは、壊されてしまった。
「…はぁ…」
じっと、両手を見つめる。正確には、両手にそれぞれあるエルファの一部、というべきか。
右手は先端についていた…少年によって踏み砕かれた石。
左手には少年によって二つに折られたエルファの木片部。
(あ…エルファって、中が空洞だったんだ…)
知らなかったな、なんて思う。
ループルは小さくハハハ、と乾いた笑いをこぼした。笑わなければやってられない。…笑ってみても、やってられないが。
(…ん?)
乾いた笑いをこぼしながら気づいたのは、エルファの空洞から少しだけ出ている、糸のようなもの。
「…?」
なんだろう、これは?
ループルは、その糸のようなものを引っ張る。
ピンッ
「…あ…」
その糸のようなもの…少しくすんだ、黄金色のものが、切れた。
――そして。
…ドクンッ
(…へ?)
鼓動が、一度高く鳴った。
ループルはゆっくりと瞬きをする。
(……え?)
次の瞬間には、鼓動が高鳴ったのが嘘だったように…まるでループルの気のせいだったように、何も変化がない。
気のせい? と、ループルの唇がかたどられた。
そして…ループルは再度、瞬きをする。
(…あれ?)
自分が切ってしまった、糸のようなものが…ない。
「…あれ?」
ループルが思わず呟きをもらしてしまうのも無理がないだろう。
確かに、あったはずなのに。…確かに、自分がプチッと切ってしまったと思ったのに。
(…やっぱり…)
今日は、厄日だ。
ループルは、今度は大きなため息をこぼした。
荷物は掏られるれるし、嫌なおっさんには遭遇するし、大事なエルファは折られてしまうし…。
それから、あったはずの糸が姿を消すという、自分的にわけのわからない事態は起こるし…。
ループルは再度、壊されてしまったエルファを見つめた。
(折角…)
ゆっくりと、瞳を閉じる。
(折角スールがくれたものだったのに)
もう一度、ため息。
――そして。
「…え?」
スール?
自然と思い浮かんだ名前に、思わずループルはエルファを見つめた。…じっくりと。
(…スール…)
共に、人が滅多に通らない山中で暮らした。
大きなエルファを持っていた。
黒髪に、黒かと思わせる深い藍色の瞳。
ループルと同じように額飾りをしていた人。
「…スール」
ループルは呟きをもらす。
彼が…スールが自分にエルファと『力』の使い方を与えてくれた。
――なぜ忘れていたんだろう?
なぜ、自分の師を。
今、自分がこうしていられるのはスールのおかげだといっても過言ではないだろうに。
家族と自分の故郷を…あの、長い髪の男に奪われ…あそこから動けずにいた自分を救ってくれた人を、なぜ。
――どうして自分は、忘れていたのだろう。
ループルは唐突に記憶の一部を取り戻した。
――家族と故郷を奪われた後のことを。
自分がエルファを持ち、『力』を使えるようになった経緯を。
そして、疑問が浮かぶ。
なぜ、彼を忘れていたのか。…それから。
どうして自分が今、彼の傍にいないのか――と。
彼と別れた…彼と離れた理由が、思いだせない。――わからない。
記憶の一部は取り戻したものの、代わりに新たな疑問が生まれた。
* * *
座ってため息ばかりついていてもしょうがない。ループルはとりあえず、歩き出した。
エルファは壊れてしまったから、『力』は使えない。
どこかで新しいエルファを手に入れたり…叶うならばこのエルファを直してくれるようなところはないだろうか?
しかし、自分以外でこういった『力』を使う人はスールしか知らないし、見たことがない。
風がループルの髪を揺らし、頬を撫でた。
(エルファが壊れちゃったからなぁ…。『力』が使えないんだよなぁ…)
――そう教えてくれたのは、師であるスールだった。
エルファがなければ、『力』を使えない…制することができない。
ループルは過去を思いだし、師であるスールの言葉を思いだしていた。
エルファがなければ、『力』を制することができなくなってしまう…できないことが、あってしまう。――そう、なるかもしれない。…スールがそう、言った。
風を感じながらループルは考える。
風が、ループルの髪を揺らし、頬を撫でる。まるで、こっちにおいで、と囁いているようだ。
(…よし)
ループルは自分の直感を信じた。
風の赴くままに進もう、と。ループルは決めた。
通りを歩く。夕市の時間なのか、また人が多くなっていた。
(うーん…。一人は時々寂しいけど、こういう人が多いところに毎日いるのは嫌だなぁ…)
そんなことを思いながら、ループルはとりあえず夕食の材料を手に入れることにした。
それから、いつもは火の『力』を借りて火をおこしているが、今日は…今日からは『力』が使えない。
火打石を手に入れなければならない。
――あぁ、とループルは思う。
自分はかなり『力』に頼っていたんだなぁ、と今更感じる。
火打石を手に入れて、水は川があるからいいとして。
今夜分の食料も手に入れた。
(…そういえばいつも風に守ってもらってたんだよね、私)
今夜はきちんと眠れるだろうか、とループルはふと不安になる。
手に入れるべきものは手に入れた。三度確認したから、きっと買いそびれはないはず。
うん、大丈夫。
ループルは自分に言い聞かせて通りを…町を出ようとした。
歩く、歩く、歩く。…歩く。
風が吹いた。ループルは思わず、足を止める。
どうしたの、と。いつものように風に問いかけた。
あっちを見て、あっちを見て、と…風が言っているような気がして、ループルは視線を泳がせる。
(…なんか…)
エルファを持っている時とあまり変わりがないような気がするのは私だけ? とか思い始めているループルである。
二つに折られてしまったエルファは、きちんとウエストポーチにしまってある。
たとえ折れてしまっても、壊れてしまっても、『エルファ』を持っていれば『力』が使えるのだろうか…などと、半ば願うように考える。
あっちを見て、あっちを見て、と再度風が囁いた気がした。
自分の考えに没頭して、なんだかんだで風の示すものがわかっていなかったループルはもう一度、視線を泳がせる。
…ループルの視線の先には飲食店があって。そこにお客さんがいた。
(あそこがどうかしたの?)
風があの店を示しているのは間違いないようだ。
ループルはじっと店…ジェリエという名前らしい…を見つめ続けた。
別に、普通の飲食店だと思うけど。
ループルは火の灯された入り口や、外に何個かある机と椅子、そこに座るお客さん達を眺める。
違うの、違うの…お店じゃないの…あの人…
――風の囁きが聞こえる気がする。
(あの人?)
どの人? ループルは見つめた。そして…。
「…え?」
今、ジェリエ店内から出てきた一人の人間…一人の男に、視線が釘付けになる。
(そんな…まさか…)
だって、つい先程思いだしたばかりなのだ。
曖昧な自分の記憶。失われていた、自身の過去。…今だって全てを取り戻せたわけではない。
それでも…現実だ、と。本物だ、と。そう言われてもすぐには信じられない。
黒髪に、額飾り。…暗くて、遠くて、瞳の色までは見えない。だが。
「…スール?」
思わずもらした呟きが届いたかのように、男はまっすぐな視線をループルに向けた。
「…スール…?」
再度こぼれた呟きに、風がそうだよ、そうだよ、と言っている気がする。
ループルは我知らず男に向かう。――我知らず、歩みを速める。
突然取り戻した記憶となんら変わりがないように見える…スールの姿が、ループルの瞳に映った。