失っていた『記憶』。忘れていた『過去』。…忘れていた『人』。
その人が…夕闇の中に姿を現した時。――幻かと、思った。
なぜなら、ループルの瞳に映った人は、五年は確実に経っていると思われるのに――取り戻した記憶の姿と、なんら変わりがないように見えたから。
いつ別れたのかは、覚えてない。…思いだせて、ない。だけど…見間違えるはずがない。
「スール…?」
視線を合わせながら、ループルは名を呼んだ。男は…動かない。
黒髪。額飾り。…暗くて、遠くて、瞳の色は見えなかったが…、今はもう、見える。
「スール」
間違いない。
この、瞳。――知っている。覚えている。…思いだした。
深い、深い…黒と見紛うような、藍色の瞳。
「…ねぇ、スール…でしょう?」
問いかけるループルに、男は沈黙のまま。
…どうして答えてくれないのだろう。
間違えるはずがないのに。――今まで、なぜか忘れていたけれど。
問いかけて、ループルはまっすぐに男を見つめる。
何よりこの男をスールだと決めさせるのは、その手に持つ大きなエルファの存在だ。
記憶の中のエルファとなんら変わりない。
そもそも、エルファを持つ人間自体が少ないのだ。…というか、ループルは自分の他にエルファを持つ人間を、スールしか見たことがなかった。
「…」
ループルは、答えを待つ。
男はゆっくりと瞳を閉じた。…そしてゆっくりと、瞳を開く。
「――…あぁ…」
そしてやっと、応じた。
小さく、ため息混じりと言えたかもしれないが。
店先に灯された炎が風に揺れる。チラチラと顔の影も揺れた。
風は二人の周りをクルクルとめぐる。…まるで、二人の再会を祝福するように。
「…」
男は…スールは口を開きかけて、止めた。そしてもう一度ゆっくりと瞬きをする。ループルの姿を、じっくりと…ゆっくりと見つめた。
ループルは居心地の悪いような感じがする…こともなく、自身も自分を見つめるスールを見つめ返した。
「…エルファ…」
ループルはしばらく、スールの言葉に気づかなかった。しばらくしてやっと気づき、「え?」と聞き返す。
「エルファは…どうした?」
その問いかけに、ループルは一瞬呼吸をすることをやめてしまった。
「…ループル」
名を呼ばれ、その瞳に見つめられ…ループルは、かつての感情を思いだす。
かつて…ループルは…。
(私は…)
「エルファ…は…」
――スールを、好きだった。
「…どうした?」
言葉を途切れたループルに、スールは言葉を促す。
――エルファは、スールからもらったもの。スールが、ループルにくれたもの。
その、好きな人が自分にくれたエルファを…ループルは、壊されてしまった。
自分の荷物を奪った少年によって、ループルのエルファは折られ、壊されてしまった。
ループルはやや泣きたいような気持ちになりながら、ウエストポーチからゴソゴソとエルファを取り出す。
「……ごめんなさい…」
頭を垂れつつ差し出しして、告げた。差し出したループルの手にあるエルファを見て、スールは瞳を見開く。
…エルファは見事に折れていた。先端についていた環と石は、欠けていた。
スールは目を伏せる。ループルは、スールの顔を見ることができない。
「――…か…」
スールが何かをボソリと呟いた。――けれどループルは、顔を上げることができない。
「全てを、思いだしたか?」
言いながら、スールはループルの手から壊れたエルファを手に取った。「見事な壊れかただな」と、エルファを眺める。
その深い藍色の瞳は、暗い。暗く、何かを思っている。
スールの声に、ループルはおずおずと顔を上げた。
「…全てを…?」
ループルはスールの言葉を繰り返す。
『全てを思いだしたか』
…その、言葉の意味を理解できない。
ループルは、つい先程まで記憶の大半を失っていた。
幼い日――一人の男によって家族と住んでいた村を滅ぼされた。…自分以外の全ての人間が殺された。自分だけが、血のニオイのたちこめるそこに取り残された。
――それしか…それ以前しか、記憶がなかった。
だが、エルファが折れて突如スールのことを思いだした。
スールは、…今も少し曖昧なのだが…ループルをあの村から連れ出してくれた。連れ出して、スールのもとに居候させてくれた。
そして、風や、火や、水や、大地の『力』を借りる術を教えてくれた。
…そこまで、思いだしたのだが…。
だが、『全て』を思いだしたわけではない。
今ループルの思いだせない過去の中で一番の謎は、なぜスールと別れたのか、だ。
それが、どうしても思いだせない。
「全て? …全て…は、思いだしてないです」
スールの問いに、ループルは答えた。スールはループルの手からエルファだったモノを預かったまま、ループルに視線を向ける。
「…そうか」
いつを思いだしていないのか、あるいはいつを思いだしているのか――スールは、詳しく問いかけることはなかった。
沈黙が闇にとけていく。風は、絶えず二人を包み込んでいた。
「…スール」
その沈黙をループルが破った。スールは視線をループルへと向ける。
夜空のような、深い藍色の瞳。その瞳が、ループルは好きだった。
「…どうして私は、あなたと共にいないのでしょう」
別れた時のことは、知らない。未だ、思いだせない。
だが、スールなら知っているだろう。きっと、スールは覚えているだろう。
ループルと別れた日を。…その理由を。
ループルは、自分から好きな人の元を離れることはしない。記憶を取り戻したループルは、当時の感情まで取り戻したようだ。スールが好きだ、という…自分は変わっていないはずだ。今のループルなら、絶対にやらない。…絶対に、自分からスールの元を離れたりしない。
「なぜ、私達は別れたのでしょう」
問いかけとも独り言ともとれる口調。
スールはその言葉に応じた。それは、答えではなかった。
「それを、思いだしていないのか」…と。そう言って、不思議な表情をした。
嬉しい。悲しい。――相反する感情が、共にあるような、そんな表情を。
スールは歩き出した。ループルは、その後に続く。
二人は歩いた。…歩き続けた。夕市の人ごみは大分減っている。
「なら、いい」
突然、スールは呟いた。ループルはその声が聞こえたが、意味がわからず「何がですか」と問いかける。
前を歩いていたスールの横に並び、ループルは再度「何がですか」と問いかけた。
スールはループルを見下ろし、呟く。なんでもない、と。
沈黙が今一度流れた。
スールは黙ったまま、ループルにそっと、エルファを手渡す。
ループルはエルファを受け取って、「あ、そういえば…」と口を開いた。
言いながらも、思わずこぼれてしまうのはため息。
ループルは自分の手元を自らのエルファを見下ろしながら問いかけた。
「これは直せますか?」
「――…直す…」
その問いに、スールはループルの手にあるエルファを見つめ、考えるような顔をする。
「スール…エルファがなければ、私は『力』を使えない…制することができないのでしょう? …言っていましたよね」
エルファが壊れてしまえば…折れてしまえば、『力』を使うことができなくなってしまう、と思っていた。だが、ループルは過去を思いだし、スールの言葉を思いだした。
エルファがなくとも、『力』を借りることはできる。
ただ、『力』を制することができなくなってしまう…できないことが、あってしまう。――そう、なるかもしれない。
スールは言った。
風、火、水、大地…自然の『力』を借りることのできる自分を驕ってはならない。『力』を信じきってはならない。
もしもの時、自分の身を護るためにも、エルファを手放してはならない。
「…あぁ、そうだ」
だが、とスールはわずかに首をかしげた。
「…ここまで壊れてしまったとなると…直すよりも、新しく作ったほうがいいんじゃないか?」
スールの言葉にループルは「そうですか…」と応じた。
このエルファはループルがスールから初めてもらったもの。
『力』の使い方を教えてくれるようになってから、ずっと使い続けていたもの。愛着は、かなりある。
その時、くーっとお腹が鳴った。…ループルのものだ。
ループルは赤面する。そういえば、夕食がまだだ。
スールはループルの腹の音に気づいた。「夕食はまだだったのか」と問いかける。
ループルは「穴があったら入りたい」という心境で小さく「はい…」と頷いた。その時もう一度、くぅと鳴った。
「…飯を食べるか?」
おりしも、二人が現在歩いているところは料理店の前だ。
おいしそうな…何か、スープのようなものだろうか…匂いが、辺りに漂っている。その匂いに反応してループルの腹は鳴いたのだ。
「あの、スールは…」
いたたまれない思いのまま問いかけると、「俺はもう、食べた」とスールは応じた。「そうですか…」と返し、ループルはそんなスールの口調にハッとする。
もしもこれで、今この店に入ってしまったら…もう、別れてしまうことになるのではないだろうか。
そんなことを思ってしまう程度に、スールの口調にはどこかループルを突き放すような響きがあった。
「スールは、どこかに泊るんですか?」
ループルは問いかける。
嫌だ、と思った。せっかく会えたのだ。…どうしてスールがこの町にいたかはわからないが、記憶を取り戻した今、せっかく再会することができたのだ。
そう簡単に、別れてしまいたくなかった。
「――いや、俺は…」
そこで言葉を濁らせるスールに「野宿ですか?」と問いかける。コクリと頷くスールの答えにループルの表情がパッと輝いた。
「私も、野宿なんです! スール、ご一緒しませんか?」
色々お話したいのです、とループルは続けた。
「…」
ループルの提案にスールは応じない。そのままス、と足を進めた。ループルは目を丸くしてしまう。
…自分と一緒なのは、嫌なのだろうか。自分と一緒にいるつもりは全くないのだろうか。
――自分達が別れたのは、自分がスールに嫌われてしまったからなんだろうか。
そう考えたら、「そうなんじゃないか」という思いが膨らむ。
自分が今、スールの元にいないのは追い出されたから、なんだろうか。
そんなことを…『スールに嫌われた』という思いだしたくなくて、…だから自分は、別れた時のことを思いだせないのだろうか。
ぐるぐると思考がめぐる。スールの背は、少し遠いものとなってしまった。
もし嫌われてしまっているのなら、ついていったら嫌がられるに決まっている。
(どうしよう…)
ループルは動けずにいた。また一歩、さらに一歩、とスールの背が遠ざかる。当然、後ろ姿のスールの表情など見えない。
(スール)
心の中で、名を呼んだ。
声にはせず、好きだった人の…いや、あの時の感情を思いだした今は、『好きな人』といえるかもしれない…スールの名を、呼んだ。すると…
「ループル」
スールは振り返り、ループルを見つめ…名を、呼んだ。
スールの歩みは止まっていた。待っていてくれている。
ループルはエルファをウエストポーチに慌てて入れる。
そして、ループルは走った。スールの元へ、急いだ。嬉しくて、思わず笑みがこぼれる。
スールは、ループルを見つめている。
「…行くぞ」
隣に立ったループルに、スールは言った。小さく、でもはっきりと。
「――はい!」
そう、元気よく返事をした瞬間…
くーっ
…再度、ループルの腹が鳴いた。
(今…今、鳴らなくても…)
ループルはある種のタイミングの良さに恥ずかし涙が出そうになった…。