『なんだ、その目は――ッ』
息が、苦しかった。
『…気味が悪い…』
『本当に…』
助けて、と力の限り腕をのばした。――誰ともなく。
『――触るな!!』
のばした腕は、叩き落される。…触るのも汚らわしいとばかりに、柄の先で。
助けて、と唇だけがかたどった。…声はもう、出なかった。
助けて、と。数度目の声にならないループルの言葉。
…その時、風が吹いた。
『――何をしている…』
風と共に、一人の男が姿を現した。…忽然と。
『なんだ?!』
『お前…どこから…!』
ループルを取り囲む人々から驚きの声があがる。
男はその声に答えることはなかった。
――かわりに、咆えるようにして言った。
『…その娘に何をしている!!』
霞む視界でループルは見た。
声と共に、漆黒の長い髪が風になびいていた。
* * *
「全て思いだせ」と、リスティに言われた。…それに従わなければ、とループルは思った。
人は思いだすことはなくても、生まれてから現在まで、全ての記憶があるのだという。
思いだす必要のないものは脳のどこかに隠されるのだと。
――ループルには自分にとって不必要だと、隠された記憶があった。
その、ループルが不必要だと封印した…思いだすことのなかった記憶があふれる。
『場』の記憶と…リスティの言葉によって。
どこからかあふれた記憶は、ループルの覚えている過去とは全く違っていた。
自分が時折思いだしたのは、優しい香りのした母。
厳しくて、強い父。そして、少し意地悪な兄。
…思いだしたのは、優しい人達。
小さな里の、素朴で優しい人々。
自分の記憶にあったのは、そんな優しい記憶。
――時折思いだしたのは、大好きな人達…。
だが…今、どこからかあふれる記憶は全く違った。
「優しい人達なんて…いなかった」
(私は、忌み嫌われていて…)
『優しい香りのした母』…そんなもの、いない。母など、知らない。
いたのは、狂った女。
自分を見るたびに『魔物』だと、泣き喚くばかりの女。
『厳しくて、強い父』…確かに厳しく、確かに強かった。
甦った記憶の中の男は、自分を見るたびに罵って、泣き喚いていた母をなだめた後はいつも自分を殴った。
――自分にとってその男は恐怖の象徴だった。
『少し意地悪な兄』…優しさなど、欠片もなかった。
…母を返せ、と。
父と同じように自分を罵り、自分を殴り続けた。
「――何も、なかった。…誰も、いなかった…」
過去はもろく、あっけなく崩れ去っていった。
ループルが思いだしていた記憶が偽りのものだったとわかる。
あまりにも、あっさりと。
どうしてあの優しい過去が『過去』だと思っていたのか…。
自分を大切にしてくれていた家族がいた記憶がウソだと。
自分に優しかった里の人達などいなかった、と。
「お前の過去は、偽りの記憶だった?」
リスティの声が漂うようにして響く。その問いかけに、ループルは頷いた。
「そう…わかった」
ループルの答えにリスティも頷き、続ける。
「しかし、それはお前が作った記憶ではないだろう?」
「…――」
ループルはその問いかけには答えることができなかった。
しばらくして小さく「――わからない」と呟く。
…もしかしたら、自分の望みが記憶となったのかもしれないと思った。
――自分に優しい人がいなかったことがあまりにも辛くて、悲しくて、記憶をすり替えたのではないだろうか、と。
しかしリスティはループルの返答をすぐに否定した。
「違う。オレにはわかる。お前の記憶は介入された記憶だ」
では誰の介入だ、と問いかけるように…問い詰めるように、リスティの声が響く。
「――介入…?」
ループルはリスティの言葉を繰り返した。
「…そう。お前の記憶に介入した者」
「――誰…?」
ループルは問いかけた。
リスティは一度瞳を閉じ、何か、想いを馳せるような表情をした。
しかしゆっくりと頭を振り、瞳を開くと続ける。
「そんなことができる奴はたくさんいない筈だ。…例えば、共にいた時間がもっとも長いのは、誰だ?」
共にいた時間が、もっとも長い人。――そんなもの、一人しかいない。
…スール。
「――スー…ル…」
その呟きと同時に…更に、記憶があふれる。
里の人達を殺した人――スール。
共に暮らし、自分に力の使い方を教えてくれた人――スール。
…記憶の介入。
スール。スール。スール。
「――スール…」
声が、わずかに震えた。
そんなループルの言葉に、リスティは頷く。
「…あぁ。そうだな」
ループルの目を覆っていた手のひらを外し、リスティは囁いた。
「――もう、いいぞ。目を覚ませ」
ループルの目は、開いていた。
だが、今目覚めたかのように瞬きを繰り返し、頭を振る。
「……」
ループルは自身で、目元を手で覆った。
「自分で言ったことは、覚えているな?」
リスティは呟いた。ループルは小さく頷くことで応じる。
「全て、思いだしたな?」
「…ええ」
では、とリスティは一際静かに、言った。
「オレの言った、『バカなヤツ』が誰か、わかるな?」
ループルが催眠術をかけられる前に、リスティが話したことだ。
『死』を願う男。――同じ『種』の人間の手で殺されるしか、死ねないという男。
リスティのいう『バカな男』。
それは――
(…スール…)
「――はい…」
ループルは催眠術から目覚めた時、全てを思いだしていた。
――偽りではない、本当の過去を。
全て…全て。
「…――」
込み上げる感情。…想い。
リスティがいたことなど関係なく、ただ感情のままに。
「――っ」
ループルは、泣いた。