――最期だと思った。
詰られ、殴られ、蹴飛ばされ…混濁した意識のまま、初めてその人を見た時…初めて、スールを見た時――幻かと思った。
『助けて』
『どうして』
自分の言葉は誰にも…何にもとどくことなく、そこで終わるものだと思っていたから。
『その娘に何をしている!!』と、その声は…その、咆えるような声は。
自分に向けられたものではないとわかって――自分を取り囲む、里の人達に向けられた声だとわかって。
霞む視界と意識の中、それでもループルはわかった。
彼が、自分を守ってくれる人だということを。
母が、父が…里の人がくれなかった『もの』を、与えてくれる人だと。
『あ…あんたには関係ねぇ!!』
スールの声に、ループルを柄で押さえ込んでいた男が怯えたような声をあげながらも反論した。
『こ…こいつは魔物だっ。退治しなけりゃなんねぇ!』
『そ――そうだ!! 今まで生かしておいてやったってのに!』
男の言葉の後に、様々な声が続いた。
『コイツの目の色が変わると、いつも災いが起きる…!』
その言葉に、スールがループルに視線を向けたと思った。
そして、目が合ったと思った。
――霞む視界ではよくわからなかったけれど、それでも。ループルはスールに笑った。…その瞳は、琥珀色に輝いていた。
『魔物を殺せ!』
『退治しろ!!』
『目を潰せ!!!』
声が聞こえた。――たくさんの。
そして男の腕が振り上げられ、下ろされる。
…その手に握られていたのは、先の尖った木の枝。
先端はループルの眼に向けられていた。
そして…。
――ゴトリ、と。
ループルの体に何か重みと、何か温かい液体がかかった。
しかし体にかかった重みとは逆に、腕や首や足を押さえつけていた力がなくなる。
何が起きたのだろうか、という疑問。
…そして、悲鳴があがった。
『うわあぁぁぁっ!!!』
『いてぇ――いてぇっ!!!』
『腕が、…腕がぁ…!!』
ループルの霞んでいる視界では、何が起こっているのか目で判断することはできない。
しかしあげられた悲鳴などの雰囲気から里の人々は混乱していると思えた。
『魔物…!!!』
――ループルは半ば途切れかけている意識の中、震える声を聞いた。
その声に、スールが笑った。――声をあげずに、ただ、冷たく。
『――あぁ。その魔物の『もの』に手を出したのだから…どうなっても文句は言えまい…?』
再び、悲鳴があがった。
――ループルは見ることはなかったが…それは、幸いだったといえる。
スールは強力な鎌鼬を起こしてループルを押さえつけていた男達の腕を落し、『魔物』と呼んだ者の首にある動脈部を切ったのだ。
『――苦しめ…。俺の『もの』を苦しめた者…死で、贖え』
スールの髪が、揺れる。
風がめぐる。唸る。凶器となった風が…鎌鼬が、次々と里の者を襲う!
悲鳴がいくつもあがった。沢山の血が、風の中に舞った。
けれど…何が起こっているのか、ループルにはわからなかった。
――その時…
『お前のせいで…!!!』
覚えのある声が聞こえた。――男の。
それはいつも自分を罵り、殴る男の声。
『――触れるな!!』
声と共に、視界が赤く染まった。
途切れかかった意識の中で、瞳を閉じてしまえば全てが終わる…と、そんな気がして、ループルは懸命に目を開いていた。
…そんなループルの目に、赤く温かいものが入ったのだ。
『――ぐぁ…!!!』
声があがった。絶命の瞬間だった。
ループルの視界を染めたのは――絶命した男の血だった。
『…っ』
自分のものではない体液が入り、ループルの目が痛んだ。
『――すまない…』
静かな声がループルの耳に届き、そして、冷たい水のようなものが目元を覆った。
スールが水の『力』を借りて、ループルの目に入ってしまった血を洗い流す。
『…お前を虐げた者は、全て消した』
お前を苦しめたものは、全て――俺が殺した。
目が洗われるのを感じながら、ループルは小さな呟きを聞いた。
『――やっと、見つけた…』
そして、スールはそっとループルを抱きしめた。
…痛みつけられた体では、スールの優しい抱擁でも辛かったけれど、ループルは声をあげなかった。
『…――』
苦痛よりも、初めて自分に向けられた優しい抱擁への喜びが勝ったから。
ループルは瞳を閉じた。
たとえ今、自分が終わってしまったとしても――この人の傍なら『大丈夫だ』とループルは思った。
* * *
「少しは落ち着いたか?」
リスティはループルにカップを差し出した。
カップからは湯気が立ち上る。果物を薄くスライスしたものが浮いていた。
「――はい…」
ループルはそう答えたが、涙がなかなか止まらない。手の甲で拭っても、後から後から涙が出てくる。
リスティは「ホレ」と布をループルに差し出した。素っ気ない態度だが、ループルには十分な優しさだった。
涙は先程よりは大分治まった。――まだ、完全に治まったとは言えないが。
「額飾り…もしかしてアイツと会ってから…っつーか、暮らすようになってから着けるようになったんじゃないか?」
ループルの泣き顔を直視しないためか、ループルの横に腰を下ろしてからリスティはそう、口を開いた。
「…そうです…ね」
やっぱり、とリスティがため息のような呟きを漏らした。
「ループルが…本当の過去を思いださなかったのは、額飾りに入れられたこいつのせいだ」
リスティの指には細く長い、金色の糸のようなものがあった。
ループルはリスティが入れてくれたお茶を飲み、その糸のようなものを見つめた。
…どこかで、見たことがある。
「――あ…」
そうか、と思った。
その金色はエルファの中に入っていた糸とよく似ていた。
――その糸は切れてしまったが。
それから『どうして気づかなかったのか』というほどリスティの髪にもよく似ている。
ループルはじっと、リスティの髪を見つめた。
「これは…まぁ、わかっちまったかもしれねぇが、髪の毛だよ。…記憶を封じる力がある」
「こいつは額飾りに仕込まれてたヤツだ」とループルの視線に、リスティはそう続けて、糸…髪を引っ張った。プツン、という音の後、消える。
――ソレが消えたと同時に…再び、記憶が甦った。
スールと別れた時の記憶を。
「――…」
頭を振って、思考を切り替えた。消えてしまった糸を思う。
エルファの空洞に入っていた糸も…切れたら消えてしまった。
あの時、消えてしまったのは気のせいかと思ったが、どうやら気のせいではなかったらしい。
再びリスティの髪を見つめる。そして消えてしまった糸…髪を思いだし、問う。
「それは…リスティの髪ですか?」
どうして髪が消えてしまうのだろう、とどこかで思った。
問いかけに、リスティは首を横に振る。
「違う。…オレ、のものじゃない。アイツの額飾りについてる紐があるだろう?」
あれだよ、と言い「あれ、結構古いんだぜ。オレはまだ若い」と笑った。
…そうなのだ。
金色の糸は、スールの額飾りにもついている。
あの長い飾り紐も、こんな色をしていた。――まさか、それ自体だとは思わなかったが。
「――リスティ」
ループルは名を呼んだ。
リスティが言う『アイツ』は…『バカなヤツ』は、十中八九スールのことだ。
スールにだって知り合いはいるだろう。
それにしても…どうして。
「どうしてこんなに、知っているんですか?」
自分の記憶を封じていたのが金色の糸…髪だったこと。
…自分がスールの知り合いだということ。
『バカなヤツ』…きっと、スールのことであろう…の願いをかなえるためには同じ『種』の人間――同じ『力』を得た人間が必要で。
スールと同じ『力』を得た人間は、自分。
――今までの口調からして、自分がスールと同じように『力』を借りられることもわかっているだろう。
「あなたは…」
一体、どうして。
「私を…私の記憶を、思いださせてくれたんですか?」
ループルはリスティを見つめた。
――その色は、琥珀色。薄墨色だった面影はない。
リスティは真っ直ぐにループルを見つめ返した。
――その色は空の色。…真昼の、青い色。
問いかけに唇は答える様子を見せない。
ループルは言葉を紡いだ。…多分、何よりも訊きたいこと。
「――あなたは何者ですか?」
リスティはその問いかけに答えるようにゆっくりと瞬きをした。そして、言う。
「オレは――リスティ」
続く言葉を待つ。…そこで終ったら、殴ってしまいそうである。
しばらくの、間。そしてリスティは告げた。
「過去を視た者。記憶を司った者。…けど」
伏せていた目をループルに向け、笑う。太陽のような、明るいものだ。
「簡単にいうと、スールの友達」
明るい笑顔とその答えにループルは目を丸くした。
しかし『難しく考えることはないか』と思いなおし、「そうですか」とループルも笑う。
リスティは「せっかくオレが淹れたんだから飲めよ」とカップを指した。
それに頷いて、ループルはお茶を飲む。
そんなループルを見ながらリスティの唇だけがかたどった。
『過去のな』
と。