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三、二泊目−ⅰ

「…で、オレはどうすればいいんだ?」
 食事もとり、宿に向かいながらエリナはイリスに問いかけた。
「んー…とりあえず、今晩あたしの部屋にいてよ。すぐにアレが出てくるかどうかわからないから」
 エリナがイリスの言葉に「わかった」と頷くまで間があった。
 なんだかんだ言いながら付き合いがよくて…けれど根が真面目らしいエリナのことだから、夜に異性の部屋に長居することがはばかれるのだろう。
 イリスはそんなことを考えて思わず微笑みを浮かべた。
 イイヤツなんだな、としみじみ思った。

**** **** ****

 宿に到着すると、二人は受付から宿泊する部屋の鍵をそれぞれ受け取った。
「とりあえず、風呂に入らせてくれ」
 エリナの言葉にイリスは頷き「じゃあ、あたしは散歩してるわ」と続けた。
 アレの正体がわかり、原因不明だった昨日よりはマシだが、やはり気味が悪いものは悪いし、ついでに好き好んで怪奇現象を体験したいとも思わない。
(あぁ…お風呂、どうしよう…)
 イリスはエリナに手を振りながらそんなことを思った。
 自分の考えが正しくて、予想通りに事が運び、うまくいけばアレを追い払える。
(アレを追い払った後にでも入るか)
 ダメだったらエリナの部屋のお風呂を借りよう、などと考えて空を見上げた。
 …白い月が、夜空に浮かんでいた。

「ディンセント」
 呼ぶ声は、エリナのものだった。
 イリスは振り返る。風が心地よい。夏だが、少し寒いくらいだ。
「あぁ、わざわざお迎え?」
 ありがとう、と答えてイリスは笑った。
「他人事だが、この暗い中よく一人でふらふらできるな」
 エリナは笑うイリスに少し首を傾げる。「昨日、不可思議体験したヤツとは思えない」とぼやいた。
 そのぼやきにイリスは「人のこと言えないじゃない?」と返す。自分だってそうだが、エリナだって体験者だ。
 イリスの声にそれもそうか、と月を見上げる。もう少しで満月になりそうな、少しだけ欠けた月。
 風がふいた。
 風呂上りで血行がいいらしいエリナは気持ちよさそうに目を細める。だが。
「――やるなら、ちゃちゃっとやるか」
 そう、口にした。
 やはり根が真面目なようだ。
「そうだねぇ」
「…やる気ねぇなぁ」
 そんなエリナの呟きをイリスは聞き逃さなかった。
「あたしはいつでもやる気満々よ」
 胸を張って宣言したイリスに「あぁそうかい」とどこか投げやり言いつつにエリナはイリスに背を向ける。イリスはぐるぐると肩を回すエリナの脳天に一度チョップをかました。
 完全に乾ききっていないエリナの頭は少し冷たい。
「…なんだ?」
 イリスのチョップはなかなかいい入り具合だったらしい。エリナはしばらく声を無くしながらも頭を撫でると、イリスに振り返った。
「いや、『トモダチ』にカツを一発」
 若干目が据わっているエリナにイリスは応じた。『友達』がどことなく片言である。
「――そりゃ、ありがとよ」
イリスに対して、エリナもまた片言気味だ。
「オレがカツを入れてもらってどうするんだ」とかいうエリナの声が聞こえた気がして「あたしはいつでもやる気満々だから」と答えておいた。

**** **** ****

「…今のところ、異常なし」
 イリスの泊まる部屋にまず入ったのはエリナだった。ちなみにイリスが押し込んだ。
「そうね」
 エリナの言葉に頷いてからやっと、イリスは部屋に足を踏み入れる。
 ビシッ
 …木の軋むような音が、部屋に響いた。
 続いてバタンッと戸が閉まる。
 後から入ったイリスが閉めたわけではなく、窓が開いているわけでもなく。
(――おいおい)
 タイミングを計ったかのように…いや、もしかしたら実際、この部屋にいる『何か』は待ち構えていたのかもしれない…その現象は起こった。
「…最低」
 ボソリと、イリスは呟いた。
 その言葉を『何か』は聞いていたのか…軋む音は激しさを増した。
 ギシッ ……ギッ
 …バシッ ――ギッ
 イリスもエリナも視線を空に泳がせる。
 そして…再び、あの声が聞こえだした。
 最初のうちは弱く…弱く…だんだんと、強く。
 頂戴、と。
 体を頂戴、と。
 声が、イリスの耳元で響くと、体中に鳥肌がたった。声と共に、蛇が体に絡みついていくような感覚がする。ひたり、ずるりと…冷えていく。
「エリナ! ちゃんと『見て』よ!」
 声に対する苛立ちと、絡みついてくるような冷たさや勝手に立つ鳥肌を振り払おうとイリスは意識せず、半ば怒鳴り声を上げる。更けていく夜の時間帯を考えれば好ましい行動ではなかったが、そんなことは気にしていられなかった。
 イリスの怒鳴り声にエリナは応じない。
形見者けいけんじゃ』が『享名』を見取るには相当な集中力が必要で、今のエリナにイリスに応じる余裕はなかった。

 チョウダイ チョウダイ チョウダイ チョウダイ …

 声は前から、後ろから…右から、左から、四方八方から声が響いている。
 届く言葉は同じだ。
「カラダをチョウダイ」とただ、それだけ。
(鬱陶しい…)
 イリスは心底、そう思った。
 表情にもその心情は表れ、しかめっ面をしている。
 あまりの鬱陶しさに、「動けば声も多少小さくなるかもしれない」とイリスは冷たさや鳥肌のせいで少々重い足で歩を進めた。
 絡みつくような感覚はあるが、動くことは出来る。
 右に一歩、前に三歩。
 …声は変わらず聞こえる。
 左に三歩、後ろに五歩。
 …声は聞こえるし、壁にぶつかりそうになる。
(とりあえず前進…)
 イリスが再び歩を進めようとすると…
「ディンセント!! 動くな!!!」
 …という、今度はエリナの怒鳴り声が部屋に響いた。

 ……
「――あれ?」

 突如、音が止んだ。
 木が軋むような音も、鬱陶しくて仕方なかった『何か』の声も、イリスに蛇が絡みついてくるような感覚もなくなる。
「…――あぁ〜っ、見えなくなっちまった…」
 悔しげな呟きに、体が軽くなったイリスはエリナの元へ歩み寄る。そして問いかけた。
「見えたの?」
その言葉に、エリナは少しムスッとしながら応じた。
「見えたっちゃ見えたんだよ。――ただ、『アレ』はお前にまとわり憑いてたらしくてさ…」
 この言葉で先程のエリナの怒鳴り声の意味を知る。
「あぁ、だから「動くな」か」
「そうだ」
 ちきしょう、とエリナはぼやいた。
 エリナは案外口が悪い。
「実はあたしの享名の読取してた、なんてオチはないよね?」
 ある意味失礼な発言にエリナは腕を組みながら「二つ見えたし、お前のは知ってる」と呟いた。
「ところで…どうして、いなくなったんだ?」
 首を傾げるエリナの声を聞きながら「生意気な真似を」と呟いて、イリスは辺りを見渡す。
(…もしかして、エリナの大声に驚いたのかな?)
 そんなことを考えたイリスの耳に一際高く、音が響いた。
 ――バシンッ!!
 木が軋んだわけではない。…鏡台の鏡に大きくひびが走ったのだ!

「…再登場〜♪」
「歌ってる場合か?!」
 鼻歌交じりのイリスにエリナは一言、鋭いツッコミである。

 鼻歌交じりのイリスだったが…次の瞬間、突然指先が冷えてきた。明らかに。
 氷水に指を浸したかのような、急激な温度変化だった。
 イリスはふと、大きくひびの入った鏡に視線を向ける。
 イリス自身と…暗い影が見えた。
 何かがいるのだと、直感する。
 急激な体感温度の低下と、先程と比にならないような空気の変化。
 静電気とは違うかもしれない。ただ、電磁波の中に身を置けばこんな感覚がするのではないか、などと思う。
(これは何か怒ってるのかな〜っと)
 イリスはそんなことを飄々と考えていた。
 …しかし、状態としては結構ヤバイ。
 冷えていたのが指先だけから、腕全体に広がる。
 金縛り状態となっていて、自分が思うように動けなくなってきた。

 ヨコセ ヨコセ ヨコセ ヨコセ …

 何かの声は『チョウダイ』から『ヨコセ』に変化した。
 …体がうまく動かない。

 オマエ ノ … ヨコセ …
 ヨコセ …ヨコセ…!!!

 耳鳴りのように響く声が一際大きく響いた時、冷たさが腕ばかりではなく一気に体全体に広がった。
「――っ」
 イリスは思わず、ガクリと膝を折った。
 自分の意志はない。ただ、膝が折られた。
 床に手をついて、イリスは座り込む。
 手をつかなければ、そのままうつ伏してしまいそうだった。

 
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