TOP
 

三、二泊目−ⅱ

 ヨコセ ヨコセ …ノ …カラダ …ヨコセ …!!!

 イリスの視界の隅にエリナが映った。
 こちらをじっと見据え、紙に何かを記しているのが見える。
(お、頑張ってるな)
 イリスは目だけ動かし、鏡を見た。
 割れた鏡に映るのは自分の顔と、言い表すのは難しい気配もの
 明確な形があるわけではない。
 だが、そこにあるのはわかる『何か』。
(頼むよ、エリナ〜)
 体が妙に寒くて、それから重かった。
 自分の体なのに自分の思うように動かない。

「…ディンセント!」
 鋭い声が、イリスの耳にとどいた。
 金縛りにかかった状態のイリスは、うまく応じることができない。
 イリスに歩み寄ったエリナの手には、何か図柄のようなものが描かれた紙があった。
 光源は窓越しの月だけではあったが、闇に慣れた目で一応見ることができる。
 紙に描かれた図柄は神殿の紋章とは違うが、同系のものだった。
 線と、曲線。
 字のようにも見える、図柄。
「ディンセント、見えるか? 読めるか?」
 ビシッ …ギシッ
 ――バシンッ!!!
 木の軋む音が部屋中に響いている。
 イリスはエリナの声は聞こえたが、うまく体が動かなかった。
 目だけ、エリナの持つ紙に注目する。
 …声がでれば、事は足りる。

 イリス――『音見者おんけんじゃ』が『形見者けいけんじゃ』が示した図柄を…『享名』を読み取るのも、『形見者けいけんじゃ』が『享名』を見取ることと同様、相当な集中力が必要だ。
 しかし、体が冷えて…ついでに金縛り状態にあり、いつもどおりにはさっさと集中できない。

 …ヨコセ ヨコセ ヨコセ ヨコセ …!!!

 耳元で聞こえる声が『享名』を読み取る邪魔をする。
(… … …)
 あえて言うのなら、パズルのピースが揃ったような。
 数字の羅列が計算式として自分でわかるようになったような。
(――読めた!)
 もう、体中の血まで冷えてしまったのではないだろうか。
 そんな風に感じるほど、イリスの体感温度は冷えていた。
 ヒュッと喉から空気が漏れた。
 一度は口がぱくぱくと動いただけだったが、つばをのみこんで唇を舐めてから呟くと、今度は微かだが声が出る。

『古からの盟約 刻まれし名
 享けし名をもって 契約を成す
 正しきを知って 汝を支配する』

 イリスの呟きは、エリナが聞いていても理解できない古い言葉だった。
 ――それは禁じられた言葉。
 今では知る者も…知ることができる者も限られた言葉。
 相手を自分の支配下にできる、『禁契きんけいだった。
 イリスは息を吸い込んだ。
 そして、一つの言葉を紡ぐ。

 エリナの示した図柄が、イリスの中で『音』になった。
 ――享名。

『――由貴』

 それは、静かな声だった。
 それでも…部屋の軋む音が、一度ピタリと止んだ。

 … ヨコセ ヨコセ ヨコセ …

 声は続く。金縛りはまだ解けない。…けれど、少しだけ体が動きやすくなったようにも感じられる。
 声が、先程よりすんなり出た。
「…あたしを、放しなさい」
 イリスが言った瞬間、金縛りが解けた。
 体は重い感じがするが、それは余韻のようなものなのだろう。先程よりは断然軽い。イリスは「やれやれ」と肩を動かし、首を回して凝りをほぐすようなしぐさをする。

 … ヨコセ ヨコセ ヨコセ …

 未だ止まない声にイリスは一つ息を吐き出した。続けて呟く。
「静まりなさい」
 ――その命令が響いた瞬間、音という音が止んだ。
 部屋中が軋むような音はもちろん、『ヨコセ』という声も聞こえない。
 イリスは目を細めた。
 …だんだん、体温が戻っていく感覚がする。
 指先の冷たさが、温かみに変わっていく。手を数度握ったり開いたりを繰り返した後、イリスはしゃがみこんだまま、拳を握った。
「…よくもあたしを驚かせてくれたわね」
 ボソリと呟く。
 声は、静かなままだった。
「――ついでに安眠妨害もしやがって…」
 ソコかよ、とエリナの唇だけがかたどった。
 イリスはエリナの音のない呟きに気付かない。
 イリスは鏡を見据えていた。
 言葉に出来ない、けれど映っている『モノ』に視線が注がれている。
 その瞳には、静かな怒りがあった。
「あんたにやる体なんてない」
 自殺するような――無理心中をするような人間は嫌いだ。
 己を傷つければいいというわけではない。それほど追いつめられてしまっていた、ということなのかもしれない。それでも…他者を傷つけるような、命を粗末にする人間は嫌いだ。
「…さっさと成仏しなさい」
 イリスは呟く。――鏡にむかって。
 声があがったとか、光が煌めいたとか…明確な現象が起こったわけではなかった。
 ただ、ひび割れた鏡に映っていた影が消える。
 …ふと、空気が軽くなる。
 イリスもエリナもそれを感じる。
逝ったきえたみたいだね」
 イリスは呟いた。

「……」
 エリナは目を見開いていた。
「――どうにかなった!」
 驚いた様子のエリナとは逆に、イリスの様子はいつも通りに、飄々として変わりない。
 瞳にあった怒りも、今は見えない。
「…アレを静めた…のは、ディンセント…なのか?」
 軋むような音が止み――ついでに、空気が軽くなった室内で、エリナがイリスに問いかけた。
 被害としては割れてしまった鏡くらいだ。
「ん。そう、だね。やー、『享名』の力は偉大だ」
「『享名』?」
「なんだそりゃ」と、「なぜ今『享名』がでてくるのか」いうような雰囲気の口調に、イリスは座ったままエリナを見上げて続ける。
「『享名』は魂の名前なんでしょ? アレが幽霊…なら、魂の塊みたいなもんじゃない」
 ピシリと人差し指を立て、教鞭をとるようにして告げた。
「だから効くと思ったんだ〜」
 イリスはクルリと立てていた人差し指を回す。そう言うと、あくびをした。
「あぁ…ぁ。これで、今夜は安心して眠れる…」
「――結局ソレか」
 エリナは思わず突っ込んだ。
「ん? 寝てるときは至福の時間だよ」
 膝をついていたイリスは、床についていた膝を叩きながら立ち上がる。
 イリスの言葉に「そうか…」と脱力気味にエリナは応じた。一つ息を吐き出す。
「――じゃあ、オレはもういなくてもいいな?」
 グルグルと肩を回し、首も回し、動かせる関節という関節を回したり伸ばしたりしているイリスを横目にしつつ、エリナはドアに向かった。
 イリスのいっそ、のほほんとしているともいえる「おやすみ〜」の挨拶を背に、「ああ」と振り返らないままドアに手をかける。
「…あ、エリナ」
「ん?」
 その呼びかけに、エリナは振り返った。
 ブルーグレーの瞳を見つめ、イリスは笑う。
「ありがとう」
 改めて言ったイリスに、何度か瞬きした後、エリナもまた笑みを浮かべた。
「『トモダチ』なんだろ?」
 そう言うと「じゃあな」とエリナはイリスの部屋を後にする。
 イリスはなんだか温かな気持ちでエリナの背中を見送った。

 その後のイリスはのんびりお風呂を満喫できたし、眠りにおちるまで妨害されることはなく、ついでに朝目覚めるまでぐっすりと眠ることができた。

 そして――きちんと覚えているわけではないが、夢を見た。
 イリスとエリナが笑いあっている夢を。

 
TOP