「克己が好きですよ」
…そんなこと、言うつもりなんてなかったはずなのに。
気付いたら、口にしていた。――勝手に、唇が紡いだ。
相手は、克己ではなかったけれど。
※ ※ ※
「眞清」
声に顔を上げると、黒髪を一つにまとめたすらりとした少女が軽く手を上げた。
視線は、大体眞清と同じような高さ。顔を向けるだけで目が合う。
「はよ」
少しばかり笑みを浮かべて告げる彼女に「おはようございます」と応じた。
――何故だろう。
一年半前…眞清の家にやってきたのを見た時にはあまり『少女』という感じはしなくて、『女性』という印象もなくて。
振り回されて腹が立つだけの、飄々とした『存在』だと思っていたのに。
今では『異性』だと、思う。
彼女は――大森克己。
眞清の幼馴染みで、中学3年の秋からの…なんだか中途半端な時季の転校生で、クラスメイト。
高校に入学してからも、克己とはクラスメイトだ。
席順も近い。…まぁ、席順に関しては眞清が仕組んだのだが。
卒業式も終わり、もうすぐ春休みといったところ。
短い春休みながら待ち遠しい…ということはない。
眞清は別に平日も休日も大きな変化はない、と感じていた。
家で過ごすか学校で過ごすか。
過ごす場所の違い程度で、やることに大差ないように思えている。
時間さえあれば読書に充てている。
学校で過ごすとなれば当然というべきか授業が大半だが、休み時間など…やはり時間さえあれば本に視線を落としていた。
「もうすぐ春休みだな」
克己の一言に眞清は「そうですね」と応じた。
眞清は『春休み』と自分の中で繰り返してふと、思いだす。
昨年の春休み。――高校に入学する前の、中学では最後の春休み。
(あれから、一年ですか)
…『呟き』を聞いた。
あれは、ある意味では『告白』。
――克己の、眞清の知らない時間の『記憶』。
よくよく考えてみれば、克己を意識しだしたのは…もしかしたら冬のことだな、と思う。
中学3年の、冬休み。…その直前。
連れ回されて、振り回されて…別に友人がいないわけではなかったけれど、大まか一人で過ごしていた眞清のペースを、克己はかき乱した。
しかも『小さい頃の写真』という――まるで女の子みたいだった、自分としてはあえて他人に見せたいものでもない――眞清の過去を握って。
そんな克己に、眞清は堪忍袋の緒が切れた。
ケンカの仕方を知らないから、殴ったりはしなかったけれど…克己の腕を掴んで、押えこみ、動きを封じ込めた。
『――離してもらえたりとか、できないか…?』
そう言った克己に…普段飄々としていた克己が少しばかり声を震わせていたことに変な心が疼いて、いつもの仕返しついでに掴んだ克己の腕を離さなかった。
――あの時、だ。
克己の腕の細さに気付いたのは。
…眞清より力がないということに気付いたのは。
視線の高さは同じで、背も同じくらいで。
…なのに掴んだ克己の腕は細くて、別段運動をしたりして鍛えているわけでもない眞清の押さえつける力に敵わなかった。
克己の震えと、思いの外細かった腕に眞清は押さえつけていた腕を解放した。
…驚いてしまったのだ。細かった腕と、眞清の力に敵わない克己の抵抗に。
――あの時に『異性』だと、多分…認識した。
その時の『震え』が、『男』の力を恐れて…驚いて、震えたかと勘違いして、眞清は克己を解放した部分もあった。
(結局、寒さで震えてただけみたいでしたが)
壁に押し当てた背中が冷えて、寒いと言った。震えて、少しばかり肩を擦っていた。
その時に――古傷が痛む、と言った。
いつもどおりの飄々とした態度で。…そう思えたけれど…その目は、思いの外静かなもので。
その時の目を見て――飄々としたいつもの態度が、克己の『ライン』なのかと思った。
他人を踏みこませないための…踏みこませ過ぎないための、『壁』。
眞清の『笑顔』と同じ…方法が違う、けれど『ライン』なのかと。
そこから苛立つだけの克己との行動が、変化した。
眞清は自分を振りまわす克己の『観察』をするようになったのだ。
共にいて、観察して…気付いた。
克己は他者に背中を晒さないようにしている、と。
大抵カバンを背負うようにして…あるいは壁や、椅子があれば背もたれに身を預けるようにして、背中を他者に見せないようにしている、と気付いた。
仮に『誰か』が背後にいると、緊張した面持ちを垣間見せた。
…それは、『観察』していた眞清だから気付いたことだと思う。
その『垣間見』は本当に短い時間のことで、次の時間には飄々とした通常の態度に戻っていた。…ただし、背中をその『誰か』には晒さないように体の向きを変えて。
自分でもこんなに『観察』するのは珍しいとどこかで思いながら。――特定の『他人』に興味を持っている自分を不思議に思いながら。
…それでも『観察』は止めないまま…ある時、克己に突っ込みをかました。
「何をビビっているのか」と。
――あの時の克己の反応も、覚えている。
克己は「何を言うのか」と空っとぼけようとしたけれど、眞清がそれをさせなかった。
キレた時と同じように…けれどキレたわけではなく、克己の腕を取り、克己の背後をとった。――強制的に、眞清は克己の背中側へ回った。
『気のせい、と?』
背後から眞清は克己に問いかけた。
『――ヤなヤツだな、オマエ』
眞清の問いかけに克己はポツリと答えた。
掴んだままの克己の腕。――増していく震え。
『――…言うから…』
――降参と言わんばかりの態度に、眞気は克己の腕を解放し、克己が壁に背を預けることを許した。
そのまま何も言わず…眞清の問いかけに答えないまま――眞清を置いていく、という様子はなかったが――帰ろうとした克己に眞清は思わず言った。
『…言うから離せ、と』
繰り返した問いかけに克己は苦笑を浮かべた。
『なんだよ、そんなに興味あるかよ』
『――…』
――克己の問いかけに、言葉での肯定はしなかった。…けれど、否定することもまた、なかった。
眞清の態度に克己は笑った。それは、馬鹿にしたような笑いではなく。
『眞清ってヤなヤツだけど、意地も悪ぃけど、イイヤツだよな』
克己の発言に眞清は思わず顔を顰めた。…何を言いだすのかと。
『言うから離せ、でちゃちゃっと離してくれたじゃん。ホントにヤなヤツだったら『言ったら離す』とかなるだろうに』
そう言って、克己はまた笑った。
『イイヤツだよな』
その言葉に眞清が少しばかり戸惑っていたことを、克己は知っているのだろうか。
そして――その日には結局聞くことはなかったけれど…『言うから』と言った言葉どおり、克己は春休みになってから眞清は『背中』の話をした。
(今も、痛むんでしょうか)
眞清はふと思った。
克己はいつものように電車の壁に背を預け、窓の外を眺めている。
同じ豊里高校に入学してから…もうすぐ、一年。
一緒に登校するようになってから、違う時間の電車で登校したことは、おそらく片手以内のことだと思われた。
今も、克己の背中は見えない。…見せない。
克己が、他者に背中を晒さない理由。…晒せない理由。
それは――当然というべきか、眞清の知らない時間の中にあった。
眞清が克己と別れたのは…小学校に上がる前。再会したのは、中学3年になってから。
…8年の空白。
その間に『何か』あったって、別段おかしくはないのだけれど。
――それでも、克己の『背中』の話を聞いた時は驚いた。
現実は小説より奇なり…なんて聞くけれど、身近にそんな『現実』があるとは思わなかった。
――海に行こう、と。
合格発表の日…その後に、克己が言った。
家から海には、自転車で30分程度で行ける。
海岸に辿りついて、克己が口を開いた。『独り言を言うから』と。
『大事な奴がいた』
海風が吹く中、淡々と…それでも不思議と、消えない声音で。
『あたしが、傷つけて…一緒にいるって言ったのに、引っ越しただろ? …引っ越すって話をしたら…それで、パニックしたらしくて』
…克己が口にしたのは、他者に背中を晒さない…晒せない理由。
それは――『友人』に刺されたから、だった。
テレビや新聞で報道される『現実』。小説やドラマで語られる『事件』。
刃物で刺されて、傷つく。…下手をすれば、死ぬ。
そういった『こと』は、眞清の読むミステリー小説ではちょくちょく出てくる『こと』だった。
テレビや新聞で報道される『こと』で、現実にもそういった『こと』があることは…知っていた。
知識としては。…認識としては。
――けれど…身近に『誰か』に傷付けられて、身体に…もしかしたら心にも…『傷』を負ってしまった人なんて、いなかった。
ケンカをして、あるいはすっ転んだりして、怪我をする――そういった小さな『事件』はいくらでもある。
自分自身だって怪我をしたことくらい、ある。
…けれど。
他者によって、『モノ』を用いられて傷付けられたことなんて、ない。
――テレビの向こうの情報や、小説の中の物語でしかなかった。
『だからいまだに、駄目なんだ』
克己は少しばかり苦笑のような…自嘲のような声を洩らしながら、言った。
背中を出すのが苦手な、理由。
――克己が『大事な奴』と言った相手から刺されたから、という…理由。
聞きながら…それは当然だろう、とも思った。
通り魔のような存在に傷付けられても当然、他者が怖ろしくなるだろう。
けれど克己の言う『大事な奴』。その『大事な存在』が同時に『信頼する存在』であったなら。
…そんな『信頼する』相手に背中を刺されたとなれば…他者に背後を許せなくなるのは当然のことだろう。
信頼する人間に刺されたのであれば、信頼できない…気を許せない人間に背中を見せられないのも、当然だ。
ただ、同時に思った。
――眞清は、克己の『信頼』には足らない人間なのだろうか、と。
自分には背中を晒せないのだろうか、と…。
だから、なのだろうか。賭けだったりしたのだろうか。
眞清はあの日、克己に一つの提案をした。
『僕が、克己の背中になりますよ』
――そんな、提案を。
ずっと『振り回されている』と思っていて。
…実際、一度キて。キレて。
――それでも一緒にいて…共にいて。
連れ回されて振り回されていたはずなのに、『克己の傍』というポジションを不快でなくなっている自分に気付いた。
…気付いてしまった。
自分は――小さい時の自分は、克己が…『かっちゃん』が好きだった。
思いだしてしまった。
男とか女とか…小学校に上がる前、『性別』なんて意識しなかったけれど。
ただ、好きだった。恋とか、そういったものではなかったけれど。ただ…『個人』として、『好き』だった。
体が弱かった自分。強く見えたかっちゃん…克己。
憧れみたいな気持ちもあったのかもしれない。
けど…『好き』だった。
離れると知った時に、会えなくなるとわかった時…思わず、涙が流れたくらいに。
『ゆびきり!』
――『約束』を、交すくらいに。