午後6時。
今夜は結局麻婆豆腐にすることにした。
――どんより重そうだった雲から、とうとう雨が降り始める。
夕飯の支度をしながら横島の言葉を思いだした。
『上沢くんでも怒鳴ることあるんだねー』
怒鳴って大声出したからか、ちょっと脳ミソが酸素不足気味だった。
横島の呑気な声にまともに反応できない程度に。
『兄弟喧嘩に口出ししねーけど』
ちょっとびびった、と千葉が笑った。
――兄弟喧嘩といえるのか? と思いつつ聞いた。
『ただ…小月は謝ってたからさ、許してやってよ。…とも思う』
千葉の言葉を思いだしながら思わずため息が出る。
(許すも許さないも…)
――シトシトと静かに…でも、確実に雨は降る。
「相手がいないんじゃ、どうしようもないよなぁ…」
オレは思わず、呟いた。
真斗はまだ、戻って来ない。
● ● ● ● ●
時計を確認した。
…6時半。
母さんは今日、遅番だから帰ってくるのはもうチョイ後だ。
シトシト シトシト
雨は止む気配を見せない。
「…ったく…」
アイツが教室を飛び出してもう…3時間くらい経つ。
今日は母さんもちゃんと鍵を持って仕事に行っている。
…散歩は嫌いじゃない。
オレは傘を2本持って、アパートを後にした。
中学から家に来る間に公園がある。
…公園といっても…すべり台と鉄棒、それから砂場と色褪せたベンチがあるだけの本当に小さな公園だ。
いつも気にしたりしないのだが…ふと――何気なく、公園を見る。
――こんな雨の中、傘を差さない人影を見つけた。
勘があたったのか。
…それとも、双子のナニかで引かれたのか。
オレはため息をついた。…思わず。
人影に近づく。
ベンチに座ったソイツは俯いたまま顔を上げない。
オレの足音が聞こえないわけじゃねぇだろうに。
「…おい」
言いながら、傘を差し出す。
雨に濡れたソイツ――真斗が顔を上げて目が合った。
驚いた顔。
オレは広げた傘を押し付ける。そしてもう一本の傘を広げた。
「飯が冷めちまうだろ? こんなところで何やってんだよ」
真斗は呆然と、オレを見上げる。
「……斗織…」
それは消え入りそうな声で。
(――ったく…)
オレは自分の髪をつかんだ。
「…あぁっ! もうっ」
思わず、声を上げる。
『兄弟喧嘩に口出ししねーけど』
ちょっとびびった、と笑った千葉を思いだす。
『ただ…小月は謝ってたからさ、許してやってよ。…とも思う』
――その言葉を、思いだした。
だから、ってわけじゃねぇけど。
「…オレが悪かった」
オレは、そう言う。
(そんなツラで見上げんじゃねぇよ)
――雨に濡れただけが原因じゃない、濡れた目で。
真斗がぼんやりとオレを見上げていた。
「……」
口、開いてんぞ。…とか思ったけど、言わない。
「さっきのは言いすぎた」
「――と…る…」
掠れた声で、オレの名を呟く。…真斗は何かを堪えるように、ぎゅっと口を閉じた。
「帰るぞ」
オレはさっさと背を向けて、歩き出した。…ら。なぜか、引っ張られた。
振り返ればようやく真斗が立ち上がっていた。
「ごめんね」
小さな声だった。
「――謝るなら、ベタベタすんなよ」
これで終わり、とオレは思った。
(…千葉曰く『喧嘩』がコレで終わりなら、『仲直り』になるのか?)
思考の隅で、そんなことを思う。…その瞬間『ガシッ』と背後から重みが加わった。
(…って!)
「早速抱きつくんじゃねぇ!!!」
しかも濡れたままだし!!
オレは半ば吼えた。
「――おいっ!」
文句を言おうとすると、ガクン、と真斗の体が傾ぐ。
真斗に渡した傘が放り出された。パサッと、土に音が吸収されて軽い音がする。
「ごめん…斗織…」
立とうとしているのに、力が入らない…そんな風に、見えた。
真斗は少しフラフラしながらオレから手を外して傘を拾う。
薄暗いせいか、真斗の顔色が悪く見えた。
「……」
オレはそんな真斗を声もなく、ただ、見た。
「ちょっと、立ちくらみ」
じっと見てしまっていたら…笑いながら「大丈夫だよ」と真斗は言う。
「…誰も心配なんざしてねぇよ」
オレは真斗の手首を掴んだ。そのまま、引っ張る。
「ぶっ倒れるなら、家に入ってからにしろ」
今にも倒れそうな真斗に言うと背中から小さく「うん」と聞こえた。
● ● ● ● ●
オレ達が帰ってきて少し経ってから、母さんも帰ってきた。
少し冷めた麻婆豆腐を食べる。
真斗には家に着いたらさっさと風呂に入らせたから、食い終わったら「とっとと寝ろ」と布団を出した。
「…まだ寝たくないなぁ」
真斗のぼやきに思わず切り返す。
「ぶっ倒れそうになったのはドコのどいつだ! とっとと寝ろ!!」
っつーか、オレもとっとと寝る、と決めていた。
コイツの夜更かし…っつーか、おしゃべり?…に付き合わされてこの一週間はかなりの寝不足だ。
授業中に少し寝たと言えば寝たけど、やっぱり布団でちゃんと寝るほうがいい。
しばらくテレビを見つつ胃を落ち着かせてから母さんが片づけをしてる間に風呂に入って、歯をみがいた。
9時半。
少し早いような気もするが、もう、寝ることにする。(とにかく眠い)
布団を敷いた部屋では…真斗が腕だけ出して布団にもぐっていた。 ボーッと天井を見ている。
「まだ寝てなかったのかよ」
「うん」
雨はまだ止まない。
窓越しに雨の音がする…。
母さんは居間…というか飯を食うところ…に布団を敷いて寝る。
そして、オレと真斗が一緒の部屋に寝ている。
「…オレは寝るぞ」
電気を消す前に一言。
――この一週間、この宣言が意味をなしたことはない。
今もまだ起きている真斗に…今夜もまた付き合わされるのか、と思ってうんざりした。
「…このまま、目が覚めなかったらどうしよう…」
暗闇の中、早速真斗が口を開いた。
――ただ、いつもと内容が違う。
「……は?」
いつもは…学校の話だったり趣味の話だったりするのに。
違った雰囲気の内容に、思わず声を上げた。
オレの妙な声に、真斗は淡々と言葉を紡ぐ。
「怖いんだ…もし」
――明日目が覚めなかったら、と。
真斗がそう、呟いた。