「パーソン」
自分が呼ばれていたことはわかっていたがリコは振り返らずにいた。
――だって、その声は。
「…おい、パーソン」
繰り返し呼ばれて、リコはゆっくりと振り返る。
――予想通りの顔がそこにあり、少々嫌そうな顔になってしまったことが自分でわかった。
「…ナニ」
声にも少々その思いが滲む。
フとイヤミな笑みを浮かべ、リコを呼んだ少年…グレッド・ロワールは続ける。
「今日もひとりか」
「……」
太ったニコルとチビのレッシュの二人の少年を従えて、何かと――やたらと――リコに絡んでくるグレッドをしばらく見つめ返し、視線を逸らすと「そうだよ」と答える。
リコはこれから家に向かうところだった。
家の方向が同じ友達がいないから当然といえば当然なのだが、今日もリコは一人だった。
スタスタ歩き始めるリコに並んでグレッドは続ける。
「ルベルト通りのほうに行くのか」
「そう」
端的に答える。
『というか、なんで並んで歩かなくてはならないのだろう』とか思いながら。
く、とグレッドがイヤミな笑みを深めた。
その笑みを横目で確認して、そんなグレッドの顔にリコはなんだか嫌な予感がする。
「殺人事件があったよな、一昨日」
「…殺人事件?」
思わず声をあげて、再びグレッドを見るリコ。
グレッドの表情は相変わらずヤな感じの笑顔だ。
「ルベルト通りの裏道で」
「……」
グレッドの言葉にリコはしばらく応じなかった。――応じられなかった。
今朝会ったファズを思い出す。
『――オレっちと会った頃、なんか変な人とか見た?』
そう言ったファズ。
『…ちょっと、裏道で事件があってさ。――リコ、なんか見てたりとかしないかなーって…』
一昨日、偶然会って――ファズに送ってもらえた。
(そういえば結局ウチまで抱いてってもらっちゃったな…)
そんなことを思い出し、一人赤面しそうになる。
「…聞いているのか、パーソン」
「え?」
グレッドの声に、現実に戻った。
なぜか不機嫌そうに見えるグレッドに「なんなんだ」と思う。
「このところ事件が多いからな…また、今日も起こるかもしれないぞ?」
真っ直ぐ見つめるリコにグレッドはやや早口でそんなことを言った。
(…そういえば…)
今朝言っていたファズの『事件』は、グレッドの言う殺人事件なのだろうか。
(ファズさんってナニやってる人なのかなぁ…)
事件の捜査をするなんて…警察だったりするんだろうか。
「…だからさっさと帰るの」
言いたいことはそれだけ? とリコは足を速める。
殺人事件の現場近くとは、なかなか恐い。
だが、家の方向的にルベルト通りを避けるとかなりの遠回りになる。
だから、明るいうちにさっさと帰るのだ。
「そういうグレッドは? こっちに用事でもあるの?」
そもそもグレッドの家はこちらの方向だっただろうか? とコッソリ思ってそう、問いかけた。
足を速めたリコに並び続けるグレッド。
一緒に帰るつもりなんてないのに、ある意味一緒に帰っている。
「…別に? ただ、パーソンが一人なのがおかしくてな」
(どうしてグレッドっていちいち言い方がイヤミっぽいんだろう…)
むぅ、となりながらリコはそんなことを思う。
「どうせあたしは一人よ」
ついてこないでよ、と言えば「僕がどこに行こうが僕の勝手だ」と返される。
(…もぉ〜っ!)
チラ、と横目で裏道へ入れる入り口を見つけた。
このところなにやら恐い目にあってばかりの裏道。
――だが。
言うこと全てがイヤミっぽいグレッドとはいい加減離れたいと思う。
(シツコイ)
先日に比べればまだ明るいし、何より。
(裏道通れば完全に撒ける)
リコはよく通る、裏道。
グレッドよりも道を『わかっている』という自信がある。
走って、すぐに抜け出せばいい。
ひとまずグレッドから離れてしまえばコチラのもの。
…殺人事件のあった現場近く、というのは恐いが。
(とにかく、走ろう)
グダグダ何かを言い続けているグレッドに「じゃあね」と振り返りもせずに言って、リコは裏道に入り込んだ。
「? パーソン!」
自分を呼ぶ声は聞こえた。
けれど、振り返らない。とにかく走る。
●○● ●○● ●○●
街の喧騒が聞こえなくなり、リコはひとつ息を吐き出した。
走るのをやめて、歩く。
振り返って見てもグレッド達の姿はなく、リコはもうひとつ息を吐き出した。
(さて…と…)
さっさとここから抜け出そう。
リコはそう思って足を進める。
…けれど、次の瞬間。カシン、と軽い音がしてむすっこあらのぬいぐるみバックにつけていたキーホルダーが落ちてしまった。
丸い形のせいか、思いのほかそれは転がっていって、リコは慌てる。
それはリコの友達・レイミのくれたプレゼントだったから。
角まで転がっていったところでキーホルダーはようやく止まり、リコはそれを拾う。
ばさり、と羽音がリコの耳にとどいた。
何事かと視線をキーホルダーから外して、顔を上げる。
音の発信源を見た瞬間、リコは動けなくなった。
――そこに立つ存在に。
しばらくの沈黙。ただ、互いを見詰め合う。
「よぉ」
先にそう…親しげ、とも言えそうな口振りで言ったのは相手側。…キレイな人だ。
――なのに。
「一昨日ぶりだな」
声は低く、紅い瞳は血よりも深い色。
…ただ、そこに立っているだけだというのに。
「――お前…」
――その存在が、恐い。
答えずにいるリコに、相手はニタリと笑った。
「――見たな?」
何を、と口の中だけで問い返した。
…同時に、視界の隅に赤いものが映る。
背筋に冷たい何かが走った。
赤。紅。あか。
目前に立つ存在の瞳のような。――その手を濡らすものと同じ色の。
ペロリとそれをなめて、暗く笑う。
「見られちまったもんは、しょうがねぇよな」
問いかけるような口調。
けれどそれは『問いかけ』ではなく、あえて言うのなら『確認』。
男は呟くと同時に一歩、リコへと歩み寄った。
ピシリ、と額に一筋の線が入る。
(…何?)
――ありえないことがリコの目の前で起こった。
眉間に縦の線が入ったかと思うと、そこが割れて紅い三つ目の目が現れる。
その両側にも斜めの線がはしり、額には三つの目が存在した。
男がペロリとなめた手は、いつの間にか刃物へ変わっている。
――しかもその刃物は、男の手自身のようにして生えていた。
手の甲にも紅い瞳が現れ、ギョロリとリコを見つめているように思える。
足が勝手に震えた。
セットされた髪は鈍い光の角へ変化し、頬に黒々とした爪のようなものが現れる。
「ただ『壊す』だけじゃ面白くねぇんだけどな…」
リコの目の前で変化しながら男――化け物は更に近づく。
その言葉の意味がわからず…どこかわかっているのかもしれないが、理解することを拒否しているらしく、リコは何も考えることができない。
(何? 何? …何?)
ぐるぐるとめぐる思いはそればかりで、相手の――化け物ののばされた腕がリコの首元に触れた、と気付いても動くことができなかった。
触れた手は冷たい。
手かと思ったら…冷たい刃物がリコの頬に触れた。
一気に血の気が引く。
「… …」
音にならないまま、リコの唇が『助けて』とかたどった。
恐い。動けない。まるでそこに足が縫いとめられてしまったかのように。
恐い。声が出ない。――喉の奥に石があるように。
刃物へ変化した腕が一度リコから離れた。
間を置かず、それが近づく。
――リコに向かって、刃物が。
「――ッ!!!」
逃げなくては、と思った。
ガクン、と視界が変わる。
まともに立っていられず、リコは座り込んでしまった。
…動けない。
嫌だ。
…恐い。
誰か。
誰か。
誰か…。
――助けて…!!