冷たい刃物が首筋に当てられた。
――血の気が引いた。
ビュッと音がして、その刃物が離れ、瞬時に近づいた。
離れた瞬間に足の力が抜けてしりもちをつく。
近づいた時に化け物の手についていた血がリコへふりかかった。
凝固し始めた血が、べトリとリコの顔や髪についた。
「… !」
声が聞こえた。自分を呼ぶ声だと思った。
――けれど、動けなかった。
少しでも動けば、『終わり』だと思った。
●○● ●○● ●○●
化け物の姿が消え、リコの視界では見えなくなった。声だけが、聞こえる。
…立たなくては。
今は、自分じゃない誰かと戦っている。
…逃げなくては。
――なのに、動けない。
ギィン、と刃物のぶつかり合う音が聞こえる。
耳慣れない音は、鼓膜をビリビリと刺激した。
立てない。足に力が入らない。
恐い。恐い。恐い。
誰か、誰か、…誰か。
タ ス ケ テ
「…リコ!」
声が聞こえる。――自分を呼ぶ、声。
…それが誰なのか、わかる。
「――リコ…っ!!」
繰り返される呼びかけ。
振り返れずにいるリコの視界に、鮮やかなオレンジ色とやわらかな赤茶色が映る。
口の中がカラカラに渇いていた。
空気が、そのまま喉の奥に張りつくような感覚……。
ぱく、ぱくと息を呑みこみ、リコはようやく、重い口を開いた。
「――ファズ…さん…」
か細く、今にも消え入りそうな声で。
「…ファズ…さん…」
名を繰り返し呟くリコの様子をパッと見て、ファズは一つ息を吐き出した。
「立てるか?」
安堵のため息の後に短く問いかけながら、リコを立たせる。
ガクガク震えるリコの膝。それでも、どうにか立ち上がった。
「逃げろ。――まだ危ないかもしれないから」
「ファズさん…」
繰り返し、名を呼ぶ。
頬に傷があった。血が流れている。
「一緒に行けなくてゴメンな。でも…すぐに行くから」
「血…が…」
リコの言葉に、ファズは一度ゆっくりと瞬き、頬の血を少々乱暴に拭った。
「大丈夫、こんくらい舐めときゃ治る」
「大丈夫」とファズは繰り返した。
「大通り、出て」
そう言うと軽くリコの背を叩いた。
リコの背中側に立つ。
「――走れ!」
ファズの言葉にリコは走り出した。
よろよろと力なく…それでも、精一杯に。
●○● ●○● ●○●
いつもは遠い、なんて思わないのに。――なかなか、たどり着かない。
リコは大通りを目指しながら走っていた。
まるで夢の中の全力疾走のように、力いっぱい走っているはずなのに思うように進まない。
あと二回曲がれば、大通りに出られる。
リコは一度目の角を曲がった。
その瞬間――バサリ、と羽音が聞こえた。
背筋が凍るような気がした。
まだ明るいといえる時間なのに、細い裏道は薄暗い。
まさか、まさか。――まさか。
心拍数があがる。
嫌な汗が手のひらにじっとりとうかんだ。
「…そう簡単には逃がしませんよ」
背後に突如立つ存在。
丁寧な言葉遣い。
――それでも、先程の化け物とよく似た声。
威圧感。
(…恐い…)
「あなたは『見て』しまった」
続いた声は先程よりも近く、肩に息がかかるほど。
口の中で言葉にならない声だけがあふれる。
心臓が見えない手で掴まれるとしたらこんな感じかもしれない。
背筋が凍り、手に汗がうかぶ。
心拍が煩わしいと思うほど動きを感じるのに指先、足先がどんどん冷たくなっていく。
歯と歯がぶつかってカチカチと小さく音がした。
「さて…私はゼノアのように『壊す』のが趣味ではないのですが…」
リコは汗に濡れた手をぐっと握り締めた。
「まぁ…たまにはいいでしょう」
浅い呼吸を一度、意識的に止める。
ヒュッと口から空気が漏れた。
「――キャアッ…」
声がひっくり返った。
繰り返し叫ぼうとして…それ以上声が出なかった。