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●○● Ⅵ ●○●

 冷たい刃物が首筋に当てられた。
 ――血の気が引いた。

 ビュッと音がして、その刃物が離れ、瞬時に近づいた。
 離れた瞬間に足の力が抜けてしりもちをつく。
 近づいた時に化け物の手についていた血がリコへふりかかった。
 凝固し始めた血が、べトリとリコの顔や髪についた。

「…  !」

 声が聞こえた。自分を呼ぶ声だと思った。
 ――けれど、動けなかった。
 少しでも動けば、『終わり』だと思った。

●○● ●○● ●○●

 化け物の姿が消え、リコの視界では見えなくなった。声だけが、聞こえる。
 …立たなくては。
 今は、自分じゃない誰かと戦っている。
 …逃げなくては。
 ――なのに、動けない。

 ギィン、と刃物のぶつかり合う音が聞こえる。
 耳慣れない音は、鼓膜をビリビリと刺激した。

 立てない。足に力が入らない。
 恐い。恐い。恐い。
 誰か、誰か、…誰か。

 タ ス ケ テ

「…リコ!」

 声が聞こえる。――自分を呼ぶ、声。
 …それが誰なのか、わかる。

「――リコ…っ!!」

 繰り返される呼びかけ。
 振り返れずにいるリコの視界に、鮮やかなオレンジ色とやわらかな赤茶色が映る。
 口の中がカラカラに渇いていた。
 空気が、そのまま喉の奥に張りつくような感覚……。
 ぱく、ぱくと息を呑みこみ、リコはようやく、重い口を開いた。
「――ファズ…さん…」
 か細く、今にも消え入りそうな声で。
「…ファズ…さん…」
 名を繰り返し呟くリコの様子をパッと見て、ファズは一つ息を吐き出した。
「立てるか?」
 安堵のため息の後に短く問いかけながら、リコを立たせる。
 ガクガク震えるリコの膝。それでも、どうにか立ち上がった。

「逃げろ。――まだ危ないかもしれないから」
「ファズさん…」
 繰り返し、名を呼ぶ。
 頬に傷があった。血が流れている。
「一緒に行けなくてゴメンな。でも…すぐに行くから」
「血…が…」
 リコの言葉に、ファズは一度ゆっくりと瞬き、頬の血を少々乱暴に拭った。
「大丈夫、こんくらい舐めときゃ治る」
「大丈夫」とファズは繰り返した。
「大通り、出て」
 そう言うと軽くリコの背を叩いた。
 リコの背中側に立つ。
「――走れ!」
 ファズの言葉にリコは走り出した。
 よろよろと力なく…それでも、精一杯に。

●○● ●○● ●○●

 いつもは遠い、なんて思わないのに。――なかなか、たどり着かない。
 リコは大通りを目指しながら走っていた。
 まるで夢の中の全力疾走のように、力いっぱい走っているはずなのに思うように進まない。

 あと二回曲がれば、大通りに出られる。
 リコは一度目の角を曲がった。

 その瞬間――バサリ、と羽音が聞こえた。

 背筋が凍るような気がした。
 まだ明るいといえる時間なのに、細い裏道は薄暗い。

 まさか、まさか。――まさか。
 心拍数があがる。
 嫌な汗が手のひらにじっとりとうかんだ。

「…そう簡単には逃がしませんよ」
 背後に突如立つ存在。
 丁寧な言葉遣い。
 ――それでも、先程の化け物とよく似た声。
 威圧感存在感
(…恐い…)

「あなたは『見て』しまった」
 続いた声は先程よりも近く、肩に息がかかるほど。
 口の中で言葉にならない声だけがあふれる。

 心臓が見えない手で掴まれるとしたらこんな感じかもしれない。
 背筋が凍り、手に汗がうかぶ。
 心拍が煩わしいと思うほど動きを感じるのに指先、足先がどんどん冷たくなっていく。

 歯と歯がぶつかってカチカチと小さく音がした。

「さて…私はゼノアのように『壊す』のが趣味ではないのですが…」
 リコは汗に濡れた手をぐっと握り締めた。
「まぁ…たまにはいいでしょう」

 浅い呼吸を一度、意識的に止める。
 ヒュッと口から空気が漏れた。

「――キャアッ…」

 声がひっくり返った。
 繰り返し叫ぼうとして…それ以上声が出なかった。

 
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