馴染みのないニオイが鼻腔を刺激した。
ゆるゆると目を開くと、カーテンの隙間から日の光がファズの目に飛び込む。
眩しさのあまりそれを遮ろうと手を翳そうとしたが、腕が動かなかった。
「……?」
なんだ、と思う。
――腕が、重い。
ゆっくりと上半身を起こした。
腹部に痛みが走り、奥歯を噛み締める。
頭を振って痛みを追い払い、未だぼんやりした頭でそこにつっぷしている存在を見つめた。
赤茶の長い髪。
自分の腕が持ち上がらなかったのは、手のひらが握られていたためだと気付いた。
瞬きを繰り返し、自分の手を握るのが少女だと理解する。
じっと見つめ、少女が誰なのかわかった。
顔は見えない…けれど。
「…リコ…」
呟く声が掠れていた。
――自分で呟きながら、震えているようだと思った。
コンコン。
ファズはノックの音にハッとする。
顔を向けると、ドアが開いた。
「デ…」
「――しーっ」
顔を覗かせた相手の名を呼ぼうとして、相手に制された。
目配らせをして、リコを示す。
…今も眠っている少女を。
「気がつかれましたか…。どうですか? 気分のほうは」
相手――白銀の髪、青い瞳の青年は声を潜め、穏やかに笑った。
医師である彼のその言葉と、眠るリコ。
そして自分の腹部の痛みに、ファズは今更合点がいった。
「そういやオレ…」
呟いて、脳裏に浮かぶ――。
『レイミ! アヴィア!』
リコが友人のもとへ歩み寄る。
その後ろ姿を見て、ひどくほっとした。
『お手柄だったね! ファズ』
ソリュートの言葉と、ファルアの笑み。
――そして…ブラックアウト。
遠くで自分を呼ぶ声が聞こえたように思う。
「…あの時…?」
意識せずもらした独り言に、白銀の髪の青年…デリーは僅かに目を細めた。
「ファルアやソリュートがここまで運んでくれたんですよ。――それに、彼女も」
彼女と言ったデリーの視線の先にはリコがいる。
自分の手を握り眠る少女。
――温かい。
「…そ…か…」
言いながらファズはひとつ息を吐き出した。
「皆さん心配していましたよ。…もちろん、私も」
その言葉にリコからデリーへと視線を移した。
デリーは唇に苦笑を浮かべる。
「たまに来たかと思ったらこんなに大怪我で。…しかも、出血多量で」
苦笑のまま淡々と紡がれる言葉にファズは思わず「あ゛〜…」と声をあげる。
「――ワリ…」
確かにファズは、滅多に病院の世話になることはなかった。
…意識を失ってしまったような大怪我なんて、もしかして生まれて初めてではないだろうか。
謝罪するファズに、デリーは今も苦笑を見せていた。
ふと、視線を落とす。
「――特に、彼女」
「へ?」
その言葉にファズは首を傾げた。
そんなファズに、デリーはリコに椅子にかかっていた上着を被せつつ続ける。
「…血が、ね。足りなかったんですよ」
前置きなく始まったデリーの話に、ファズはゆっくりと瞬きを繰り返した。
返すべき言葉も思いつけず、ファズは沈黙を守る。
「あるにはあったんですよ、O型の血液。…でも、足りなかったんです」
ファズの血液型はO型だ。
「……」
それがどうしたのか、と思った。
そんな思いが表情にでていたのか、デリーは苦笑ではなく、ほんの少しだけ笑う。
「血液型がOの方がいませんか、と言いましたら彼女が…」
◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆
ファルアやソリュートによって運ばれたファズの顔に、血の気がなかった。
腹部には見てすぐにわかる出血。
――血液のスペアはあったが、足りなかった。
ファズは血を流しすぎていた。
『O型…?! あたし…あたしも、O型なんです!!』
デリーの問いかけにリコは目に涙を浮かべて言った。
『足りないのなら、使ってください! それで…それでファズさんが助かるなら』
落ち着いて、と言おうとするデリーの言葉を遮り、リコは半ば叫んだ。
『――助けてください…っ。――あ、あたしの血…全部あげますから…だから…っ』
言い切った瞬間、朱色の瞳に浮かんだ涙がこぼれた。
一途な瞳がデリーを射抜く。
『お願いします…!!』
◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆
「…そう言って、彼女が。…驚きましたよ、あの勢いには」
そう言いながらも、デリーの瞳に浮かぶのは優しげな光だ。
ファズは息を呑む。
リコ、と声なく唇がかたどった。
「――なので、流石に全部ではありませんけど、検査の結果大丈夫だったので、彼女にも血液を分けていただいたんですよ」
ファズはゆっくりと視線を落とす。
「オレのために…そんなことを」
ぽつり、と呟く。
未だ眠る少女。――握られた手。
温かい。…それは、手だけではなく。
「…ファ…ズさ…ん…」
まるでファズの呟きに応じるかのような…かすかな、吐息のような声が聞こえた。
――寝言なのだろうか。
(リコ…)
温かい。
――手のひらと、心と。
この感情はなんだろう。