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─1─

 木陰、草の根元、花の上。電柱と塀の合間、猫の背、ひさしの上、屋根と壁の隙間…。
 社の濃い陰の下、竹林の葉の擦れる音に紛れて聞こえる声、音。――気配。
 ひっそりと、隠れるように…水たまりだけにその姿を映す者もある。
 ふく風に乗るように、落ち葉と遊ぶように、電柱の上に鳥とおしゃべりするのを見たこともある…意外と、近くに在る存在もの
 美しく言えば精霊、妖精。――妖しさを前面に出すなら物の怪、幽霊…。
 多くの人が見えないモノを、彼は見た。見ることができた。
 それが『幸い』であるとは、言い難かったのだけれど。

*** *** ***

 執行猶予の終わりは近い。

 金が欲しかった。
 なので、バイトを探すことにした。
 ――…とりあえず、バイト先を探さねば…。
(住み込みがいいな…)
 そんなことを思いながら、彼…穂村ほむらはるかは電車に揺られていた。猫っ毛でクセのある柔らかそうな髪と、肉付きが薄く、全体的に細い印象の遙は、その細さ故か印象も薄い。
 ゴトンゴトンと単調な電車の音に合わせて移りゆく窓の外を眺める。
 三月も中旬。陽射しに春の気配を感じられるが、朝夕は冷え込むこともまだある。視界に映るのはのどかな田園風景で、あぜに黄色の濃い枯れ草が地面にひっついているのが見えた。ところどころに新芽らしい淡い緑も見られる。
 遙はおもむろにコンビニで買ったおにぎりを頬張った。これが今日の朝食だ。朝食とはいっても、起きた時間が九時頃だったこともあり、なんだかんだで今は十時を回っていた。朝食と昼食の間…なんとも中途半端な時間の食事だ。
 車内には春休みに入っているからか、四月から高校三年になる遙と同じくらいに見える学生の姿は少ない。いや、もしかしたらこの時間なら普段から少ないのだろうか。そもそも座るのに苦労しない程度に、あまり客もいない電車ではある。
 おにぎりを食べきった遙はくはぁ、と一つあくびをした。
 そのまま日差しの暖かさに身を任せるように目を閉じていく…。

 二人暮らしをしていた祖父が、先月…二月に亡くなった。
 確か、八十八歳だった。
 遙が祖父と暮らしていたのはアパートで、その家賃を出してくれていたのは祖父だった。
 アパートの管理人は祖父との古馴染みとのことで、まだ今月の家賃を払っていない遙を追い出すことはなかったが…遙は、仕事を探すついでに今まで暮らしていたアパートも出ようと思っていた。
 別段広いアパートというわけではない。
 台所と風呂とトイレ、それから和室が二部屋。祖父と遙が寝て、起きて、生活するのに十分な空間だった。
 …けれど、今の遙には広い。一人で二部屋はいらない。

 だから遙は、新しい『場』を求めた。
 そのためのバイト探しでもある。
 ――
「…?」
 ――
 遙は呼ばれたような気がして、顔を上げた。柔らく、細い髪が揺れる。
 ――
「――…?」
 気のせいだろうか、とぼんやりした頭のまま瞬きを繰り返す。
 そんな遙の耳に、停車駅のアナウンスがとどいた。
『北松田、北松田です』
 アナウンスはとどいていたのだけれど、ぼんやりしていてきちんと理解している…とは言い難い。
 電車がキィーッという甲高い音と共に停車した。停まった駅のホームを眺める。
「?!」
 ワンテンポ遅れて、遙は驚いた。脳ミソに唐突したアナウンス…駅名が、自分の目的駅の名前だと思われた。
 寝惚けた頭のまま、慌てて立ち上がる。
 遙は電車を利用することが少ないため、乗り過ごすのではないかと、焦った。
『ドアが、閉まります』
 扉が閉まる警告のピンポーン、ピンポーンという電子音が車内に響く。
「!」
 ぎりぎりセーフ! 遙は、その駅に降りることができた。
(よ、よかった…)
 遙は発車した電車を見送りつつ、そっと胸元を撫でた。
 今更ながら駅の様子を眺める。
「――…」
 目に映った駅舎は待合室だけの、簡易的なモノ。――無人駅だ。
「あ、れ…?」
 遙は、意識せず声を上げる。もう一度、周りを見渡す。
『北松田』
「…間違えた…」
 遙が降りようと思っていたのは『松田』駅であって『北松田』駅ではない。
 一つ、前の駅で降りてしまったのだった。

*** *** ***

 …期せずして、無賃乗車をしてしまった。
 辿り着いたのは北松田…無人駅。
 ホームから階段を下りて、道に出る。
 踏切を渡って、線路沿いに続く道の、電車の進行方向…右のほうへと足を進めた。
 見知らぬ場所、見知らぬ道ではあったが線路沿いを歩いていけばそことなく遙の求める大きな駅――松田駅に到着できるはずだ。時間がどれくらいかかるかはわからないが。
 電車内で見えたのどかな田園風景から、住宅地へ。線路沿いには様々な家が立ち並んでいた。
 古そうなものから、最近建てたばかりに見える綺麗なもの、公園、アパート…と見るともなく眺める。
 線路沿いの道と、おそらく家に入るための細い脇道と。
 さて、どこまで続くのかなどと思いながらブラブラと歩いている途中。
「住み込み、三食付き。コチラで働かないかい〜?」
 ――遙の耳はそんな声を拾った。
 その声に…その内容に反応した。
(住み込み? 三食付き?!)
 まさに理想ではないか。
 なんといっても食事の心配がない。
 誰かに奪われてなるものか! と遙は辺りを見渡し、その声の発信源を探した。
 線路沿いの道、細い脇道…二つ先の脇道から、後ろ姿の『誰か』がいるのが見えた。
「住み込み、三食付き。コチラで働かないかい〜?」
 ――発見いた!  遙は、走り寄る。
「働きたいです!」
 半ばタックルをかますような勢いで、遙はガシッ! と呼び込みをしている誰か…背と声から判断して男の腕をつかんだ。

 黒い帽子(シルクハット風)、襟の高いシャツ(黒)に細身のズボン(黒)…と、全身黒い男だ。
 髪は色を抜いてあるのか白っぽく、腕をつかんだ遙を…男は遙より頭一つ分程度に背が高く、見下ろす。顔立ちは目が細いせいか、笑っているように見えた。
「明日からでも働かせてもらえるとありがたいんですが、おれじゃ駄目でしょうか?!」
 遙は叫ぶようにして言った。住宅地で近所迷惑だったかもしれないが、必死だった。
 ――と、今更気付いたが、そんな遙のタックルと声に驚いたのか、呼び込みの男の動きを停止したままだった。ただ、遙を見下ろしている。
(あ…ヤバイ。驚かせたか?)
 遙はそう思ったが、出した手は引っ込められない。
 それにしても…と思った。
(体温低いな…)
 遙のつかんだ男の腕も肩も、服越しでもわかる程度になんとなく冷たい。
 外気温にさらされたためだろうか?
『低温動物?』なんて言葉が遙の頭を巡った。

 
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