沈黙の時が流れる。
長く感じた。…短く感じた。
ただ、正面の男を見つめた。
今一度、声が聞きたかった。
何度も聞けば、『誰か』がはっきりと分かるような気がした。
「分かったか?」
微かな笑みと共に紡がれた声。
遙はその声に意識を集中させる。
馴染んでいるのに――もう、聞くことができない声。
聞くことができないはずの、声。
「遙」
名を呼ぶ時の優しさ、名を呼ばれる時の心地よさ。
他の誰よりもたくさん聞いたであろう、たくさん呼ばれたであろう『声』。
遙は多くの他人が見えないものを視て、聞くことができる。
なのに、その人の姿を視なかった。その人の声を聞かなかった。
…だから、最初の声だけで判断できなかったのだ、きっと。
「――じーさん…?」
唇がかたどる。声に、なる。
遙の呼び掛けに、男は再び微笑んだ。
*** *** ***
「『百まで生きる』とか言ったのはどこのどいつだーっ!!!」
遙の叫ぶような声がその空間に響いた。…実際には『部屋に響いた』というべきなのかもしれないが、とても『部屋』といえるようなつつましい空間ではない。
「は…はるか…く、くる…し…」
「んあぁっ?! 実年齢が八十過ぎのジジィだろうと今の見た目はせいぜい三十過ぎ! …手加減しないっ」
遙は言いながらつかんでいるシャツの合わせ目を両手で持ちギリギリと絞る。
遙の祖父…樋野昴は苦しげに喘いだ…というより、実際苦しいのだろう。
『祖父』とは言っても、今の見た目は多くみても三十前半の外見だったのだが。
「は、はるか…も…こう、さ…ん…」
樋野はプルプル震えながら挙手した。しかし遙は聞いてない。聞く気もないようだ。
「目ぇ覚ましてみれば勝手にポックリ逝ってやがって!!」
「………――とぅっ!!」
遙の吼え終わったのと、樋野の気合いの声はほぼ同時だった。
樋野は襟元を絞る遙の手の一方に手刀をかました。チョップとも言えるかもしれない。
ともかく、「ふふっ」という不敵な笑いと共に「戦争を切り抜けてきたわしをなめるでない」と遙に告げる。
遙は手刀の入った左手を右手で押さえつつ、痛みのための声はない。沈黙のまま、俯く。
「…遙?」
俯いたままの遙に「そんなに強くやったか?」と樋野は訊ねた。その声に、遙は応じない。
「――…遙?」
樋野は、繰り返し呼び掛ける。
その声は――遙が毎日聞いていた声より、張りがある。
けれど…わかる。
もう一ヶ月以上経ってしまうが、あの日以前は、毎日聞いていた声。
…あの日、突然聞けなくなった声。
「…成仏したんじゃなかったのか?」
遙は俯いたまま、樋野に問いかける。
――二月、突然亡くなった樋野は、この世に『ない』人。その樋野が亡くなって以来…遙は一度もその姿を見ることはなく、その声を聞くこともなかった。
樋野は、遙が『視える』ことを知っていた。
多くの他人が聞こえないものが『聞こえる』と、知っていた。
だから…今の今まで遙に『存在』を示さなかった樋野は、とっくにこの世から去って、成仏して…遙の前に現れなかったのだ、と思っていた。
――樋野が亡くなって以来、遙は樋野の存在を、感じることができなかったから。
だから、あの部屋に居られなかった。
樋野と過ごした、樋野との思い出がつまった場所。…樋野だけがいない、変わらない部屋に独りでいることが耐えられなかった。
もし、樋野の存在を感じることができたなら、きっと…遙は、あの部屋を出ることはなかっただろう。
「…だから、おれの前に姿を現さなかったんじゃなかったのか…?」
震えそうになる声を、押しこめるように低く問いかける。
――熱い何かが遙の中をよぎる。その『何か』を言葉にするのは難しい。
「んー、思い残すことは特になかったな」
遙の低い声に対し、樋野はあっさりと言った。いっそ、遙が拍子抜けしてしまうほど。
遙は今も俯いたままだったが、ガックリと肩を落とす。
「だが」と樋野は非常に真面目な顔で口を開いた。
「そろそろ四十九日だというのに、お前が忘れていそうだったからな。それを言いに」
「マジかよ」
遙は樋野の言葉…物言いに、即行切り返し、思わず顔も上げた。
それでこそ遙だ、と笑う樋野の姿が映る。
「ついでに、今日はお前の誕生日だったろう?」
「…ついでかい」
遙は今も笑っている樋野に言い返す。三月二十一日は確かに遙の誕生日だ。
「だから、お前を驚かそうと」
続いた樋野の言葉に遙は「あー、はいはい、驚きましたよ、とってもとっても」となげやりに応じる。
しばらくして遙は「ん?」と思った。感じた引っかかりを口にする。
「もしかして若返ってきたのって…。おれを驚かせるため、か?」
その問いに樋野は重々しく「いいや」と言い、首を横に振った。
「遙を混乱させようと…」
「させんな!」
言い切った樋野の言葉に、遙はこぶしを握った。
『混乱させようとした』ということはつまり遙をからかっていた、ということで…遙『で』遊んだということじゃないか。
樋野…祖父は、時々こんな風に遙『で』遊ぶ男だった。年の功と言うべきなのか…樋野は遙を見事にひっかける。
「そのくせ『誰か分からないか?』とか言いやがって…分かるわけねぇだろ!!」
うがーっと吼える。こぶしを握ってまで騒ぐ遙の様子に樋野は心底愉快そうな声を上げた。
「最終的に分かったじゃないか」
そう言うとまた、嬉しそうに笑う。
遙は「まぁそうだけど」と思ったが口にはしない。
…ふと――沈黙が訪れた。
しばらくぶりの。
遙はクルリと樋野に背を向けた。口を開く。
「…なぁ、『あの世』ってのはどんなところだ?」
「――あ、あぁ…実はまだ、正式にはいってないんだ。…分からんよ」
樋野の答えに遙は「そうか」と小さく応じる。そして、俯いた。
…背を向けた時点でもう、相手に顔が見られる可能性は低いけれど――深く、俯いた。
「…また、来るのか?」
おれの前に。…おれのところに。
声が震えた。――そのことに、樋野は気付いただろうか。気付いてしまっただろうか。
そして…問いかけた遙に返ったのは、沈黙。
――それが、樋野の答えだ。