死んでしまった人には、もう会えない。
それが『道理』。
だが…遙は『視える』。
――もう器のない人が、視えるのに。
樋野はもう、遙に会うつもりは、ないのだ。
これを、最後だと決めたのだろう。
――今を、『最期』だと。
「おれ…あんたに何も返してない…何も、返せてない…」
まさに眠るように…眠りながら逝ったのだろう。大往生だ、と誰かが言っていた。
苦しくなさそうでよかった、と。
…だけど。
昨日まで温かかった人が、前触れなく目を覚まさなくなってしまった。
――別れの言葉さえ言えなかった。
感謝の言葉も。
「…遙」
樋野の呼びかけに、遙は振り返らない。
大切にしてくれた。
共にいてくれた。
――誰より、遙を慈しんでくれた。
「自己満足だけでもさせろよ。…おれが働き始めるまで、どうして…」
生きていてくれなかったのか。
声にはならない。だが、のどの奥が熱くなる。
「なんで遙に自己満足をさせなくてはならないんだ」
ふと、樋野は言った。言い切った。スパッと。
「…」
確かにそうだ、と遙は思った。思ったが…しかし。
(――ケンカ売ってんのか、ジジィ)
そう、声にしようとは思ったものの声にならなかった。
のどの奥があまりに熱くて。――締め付けられるように、苦しくて。
漏れそうになる吐息を噛み殺すように、遙は唇を噛む。
背を向け、今も俯く遙に樋野は静かに言った。
「何も返さなくていい。――いらんわ。…お前は、お前の思うままに生きていけ」
「――…」
遙は背中で、その声を聞いた。
俯いたまま、遙は突如振り返る。
そのまま、樋野にタックルをかました。
突然の遙の攻撃に樋野は「うごっ」と声をあげる。結構まともにくらったらしい。
げほげほとむせている樋野の肩に遙は腕を回した。
――顔を見られるわけにいかなかった。
だから遙は、樋野の肩に顔を埋め、耳元で言う。
「ちゃんと成仏しろよ、じーさん」
――多分、これが最期。
これが最後の、言葉。
「…たまには墓参りに来いよ」
すあまを持ってな、という言葉に遙は「へいへい」と適当に応じた。
…瞬間が、わかる。
――きっともう、こうして『会う』ことは叶わなくなる。
「―― …」
遙の唇が動き、空気がわずかに震えた。ただ、それだけ。言葉にはならなかった。
――けれど。
「…わしも、な」
樋野が、柔らかく応じる。
ぐっと、樋野もまた遙の肩を抱いた。
『――遙』
呼ぶ声が聞こえた気がした。…空耳のようにも思えた。
――突如、消える。
思いのほか、あっさりと。
遙は顔を上げた。
『――遙…』
遙はふいに、思う。…思いだす。
あの日――遙がこの家に辿り着いた日のこと。
あの時、何か聞こえた気がした。…呼ばれた気がした。
『――遙…』
もしかしてあれは、気のせいではなかったのか。
偶然、予定とは違う駅で降りた遙だったけれど――もしかしてあれは。
(呼ばれたのか…?)
樋野に。…祖父に。
――自分に姿を見せないままに。
空っぽの腕の中――確かに、樋野はいた。確かに…樋野は。
そのことを思い…遙は樋野に触れていた手のひらに視線を落とす。…そして、以前の樋野の…祖父の言葉を思いだす。
『死んだら星になる、と言うが、わしは確実だぞ』
…遠い、実感のない話として聞いていた。深く考えないまま、「なぜ」と問いかけた。
遙の頭をくしゃくしゃと撫で、祖父は胸を張って答えた。
『わしの名が『昴』だからだ。『昴』というのは星の名だからな』
星空を好きだった彼。
――彼も、星空の一部となる。
じーさん、と遙は口にした。
…もう、彼の姿が遙の瞳に映ることはない。
先ほど、空気をふるわせただけで言えなかった…けれどきっと、伝わった想いを今一度口にした。
「…ありがとう…」
心の奥底の想いも、彼は…分かってくれただろうか。
『ありがとう』と…それから、『大好きだったよ』と。
それが伝わったか、訊くことはできない。
――むしろ、口にして問うことは恥ずかしい。…だが。
伝わっていてくれればいいと、思う。半ば…願う。祈る。
ポタリ、と遙の手のひらに滴が落ちた。
大切な家族へ。…大切な祖父へ。
――『大好きだよ』と。
最後まで声にしないまま…できないまま、それでも伝わっていて欲しいと、…伝わったと思いたい、想い。
思いが滴となるように、涙が溢れる。
――喪った悲しみを、ようやく涙にする。
「……っ」
祖父を喪ってから初めて、遙は泣いた。
最期に会えて、思いを告げることができた。
…多くの人が見えないモノが『視える』自分の目に、初めて感謝する。
声を聞こえたことに、感謝する。
逢えてよかった、と。
伝えることができてよかった、と。
*** *** ***
「…ハル」
呼ぶ声に、遙はゆるりと瞬いた。…瞬いた瞬間、また頬に涙がつたう。
「……? え…?」
わずかにぼやけた視界で、遙の目に一人の少女が映った。黒髪。白い肌。将来が期待できそうな少女…。
「――ヒメ」
呟く声が、妙に掠れていた。
慧の小さな手が、遙の頬に触れる。ふわりと温かな体温に、遙は再び瞬いた。
…今も涙に濡れる頬に触れる慧の手は、温かい。
そう思って…。
「――っ!」
自分が泣いたままだったということに、今更ながら気付いた。
遙はばっと顔を覆う。…慧の手も、そのまま覆う。遙が覆っても、慧の手は動かなかった。
「…客人には、会えたか?」
いつもどおりの淡々とした声音。そこにからかうような響きはなく――重ねる手は、温かい。
「…うん…」
遙は顔を覆ったままの手が外せないまま、応じる。慧はもう一方の手で遙の髪に触れた。
それが犬に対するような情であったとしても、遙には優しく、柔らかく感じられた。
「――逢えて、よかったか?」
慧の問いかけに遙は顔を覆う手を外す。慧の手もまた、外れた。
まっすぐに、遙を見上げてくる。
視界はまだぼんやりしていた。
それでも…慧の後ろに宇宙空間のようなモノが広がっているのが、映る。
「――うん」
頷いた遙に、慧は笑う。
初めて見た慧の笑顔に、遙もまたつられるようにして、笑った。
今はまだ、悲しい。寂しい。…その思いが、消し去れない。
けれど、星空を見上げる心の余裕ができたら、探してみよう。
今は、北極星と北斗七星しか知らないけれど。
(じーさんと同じ名前の星、『昴』を)
いつか、絶対に。