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①誰?
<かっちゃん?>

 再会してまず思ったのは『誰?』だった。

 木陰からちらちらと日差しが揺れる。それに合わせて、道路の光もゆらゆらと揺れる。ささやかながら、風は吹いているのだが。
(――暑い)
 ふぅ、と眞清は一つ息を吐き出した。自分の中の空気を吐き出したところで、暑さを振り払うことはできないのだが。
 真っ直ぐな髪と、色白の肌。穏やかに見える双眸の色素は薄い。見た目は、昭和初期の良家のお坊ちゃん、というような雰囲気がある。…とか言われたことがある。素直に喜べる判定でもない。
 とっくに衣替えは済み、中学の制服である重い学ランは脱いでいた。半袖のYシャツのみではあるが、暑いものは暑い。
 梅雨明けしても海沿い――とはいえ、自転車で三十分程度かかる距離――であるせいか、湿気が多く蒸し暑かった。アスファルトが熱をはらんでいるのも要因の一つであるかもしれない。

 常緑樹の濃い緑の生け垣の脇を進んでいく。生け垣が途切れると建築二十年は経っていそうな古びた平屋が見えた。生け垣に囲まれた庭は広く、藤やサルスベリ、梅などの木々が植えられている。イングリッシュガーデンとか日本庭園とか…そういった整然と造られた『庭』とは言えないが、友人には「軽く森だな」と言われたこともある庭だ。
 暑さに負けてしまっているのか、少しばかり黄色っぽくなっている芝生を踏みながら、真っ直ぐに玄関に向かった。曇りガラスに黒いスチールの縦枠の戸を横へと引く。
「ただいま」
 ガラガラと音をたてながら眞清は玄関の引き戸を閉めた。家の中にはいれば湿気が多少減るのか、外にいるよりはべたつきがマシになるように思える。眞清はそこでまた一つ息を吐きだした。

 明日から中学最後の夏休み。
 終業式が終わり、いつもより早い時間に家に帰った途端…。
「おかえり〜。ちょっと来て」
 …そう、母に呼ばれた。
 なんだろう、と思う。
 母は主婦であり、ついでに小説家である父の資料集めなどを手伝うため、大抵家にいる。
 母の声を意外に思ったわけではなく、「ちょっと来て」と呼ばれたことが意外だった。
 眞清は靴を脱ぎつつ、今更ながら見覚えのない二つの靴が並んでいたことにふと気付く。
 一つは自分のモノではないサンダルで、もう一方も見覚えのない…母のモノではない、女性用と思われる白い靴とがあった。
 縁側のように窓が続く廊下をきしきしいわせつつ、声のしたほう…居間に向かった。障子戸を開けると程良く効いたエアコンが眞清を迎える。そこでまた一つ息を吐きだした。ほっとした、と言えたかもしれない。
 眞清は戸を開けた時から目に映った右手側…母の向かい側に見覚えのない二人が座っていることを改めて確認する。
 玄関には見覚えのない靴が二つあった。だから当然かもしれないが、客人は二人だ。
 まだまだ暑くなりつつある七月下旬、客には冷たい麦茶が出されていた。

 誰だろう、と思う。
 一人は少し襟足の長めな黒髪に、意思の強そうな黒い瞳の少年。おそらく、眞清と同じ年頃だろう。黒い左右対称の模様のプリントの白いTシャツの上に、カーキ色半袖シャツを羽織っている。そして、カバンを背負っていた。
 もう一人は、少年の母親だろうか。
 ショートカットで、活発そうな女の人だ。母より年上に見えた。
(母さんの知り合い…?)
 少年と目が合い、眞清はペコリと頭を下げる。
 母に手招きされて、「なんだろう」と思いつつ戸に近い場所に座る母の隣…客人の向かい側に立った。長机に座っている客人に対し「立ったままでは失礼か」と思って眞清はその場に腰を下ろす。
 母の斜め向かい側に座った少年はじっと眞清を見ていた。不躾な視線ともいえた。
 その少年の視線に声にしないまま表情も変えないまま、「なんなんだ」と思う。
 正直、眞清は人懐っこいほうではない。踏みこまれ過ぎる付き合いや他人との距離感を好まない。だが、あえて初対面の人間にケンカを売るようなバカな真似をするつもりもなかった。
 浮かず、つかず、離れすぎず…それが眞清の人付き合いの考え方だ。
「コンニチハ」
 そう言った声は、友人やクラスメイト達の声を思えば、少し高めだった。まだ声変わりが終わっていないらしい。
 少年に言われて「こんにちは」と返す。
 眞清は一応、声変わりした。昔の自分の声を覚えているわけではないけれど、母に言わせれば「ずいぶん低くなったわねぇ」と(なぜかやや嘆くように)言われるし、家の電話で応対する時、「旦那様ですか? 私は…」などと営業の電話がそのまま進められてしまいそうになる時もある。眞清はまだ誰かの夫や旦那、家の主にはなっていないのに。

「誰?」
 視線を真っ直ぐ眞清に向けたまま、少年は端的に問いかけた。その問いは、どう考えても自分に向けられている。
(…それは僕の台詞…)
 そう思った眞清の隣から、母が答えた。
「眞清よ」
 母の答えに、少年がゆっくりと瞬いた。少年は答えた母から眞清へと視線を移す。
 先程と同じようにじっと見つめられ、少々居心地が悪い。
 あんまりジロジロ見られるのは慣れていないし――こんなにも強い視線にも慣れていないから、余計にかもしれない。意志の強そうな黒い瞳のせいか、妙に『強い』と感じた。
 居心地の悪さを感じながらも「なんなんだ」と再び思う。

「…ますみ?」

 少年がそう、口を開いた。
 音を繰り返すというよりは、名前を繰り返す…呼びかけのように思える。眞清は数度瞬いた。そして、頷く。自分は『眞清』だ。
「…本当に?!」
「は?」
 やや驚きの見える少年の反応にいぶかしげな声音で言ってしまった。なんなんだ、とまた思ってしまう。今回はその思いが反応として表に出てしまった。
 いぶかしげな思いと態度になった眞清とは裏腹に、眞清の母は「本当に」とにっこり笑って応じる。
「え…だって髪の毛…黒いじゃん」
「――は?」
 続いた少年の発言に、眞清は更にいぶかしい声をあげてしまう。
 ――なぜ、自分の髪の色が黒くて、そんなことを言われなくてはならないのか。
(…というか…)
 今の言い方では、まるで。
(僕が染めていることをわかっているかのような…)

 眞清は中学に入学した時から髪を染めていた。
 眞清の本来の髪の色は日に透ければ金にも見える琥珀色で、カラーコンタクトまでしていないが、眞清の瞳も髪も、日本人としては随分淡い色だったりした。
 神戸や横浜のように昔から外人との交流が盛んな土地柄でもなく、同世代の地毛と言えば当然黒髪が主流で、眞清の髪の色は周りに比べれば断然淡く、どうしても目立ってしまう。
 眞清が琥珀色の髪を染めているのは、いくつかの小学校から寄り集まる中学で、余計なトラブルを避けるためだった。
 上級生や『異端』を排除しようとするかもしれない同級生などから無駄に絡まれる要因を事前に予防して、中学に入学した年…小学校最後の三月からずっと、髪を濃い色に染めている。
 眞清の本来の髪の色を知るのは同じ小学校の卒業生、家族――近所の住人くらいのはずなのだが。
(…こんなヤツ、知らない)
 同じ小学校の卒業生だったら、名前がわからなくても顔ぐらい覚えているはずだ。…多分。友人、クラスメイト、一度くらい同じクラスになった人…と、同じ学年であれば、顔ぐらいは知っていると思う。――だが、眞清の記憶の中に目前にいる少年の姿はない。
 同じ年頃に見えるが、同じ小学校の卒業生で…違う学年だったりするのだろうか。違う学年だと覚えていないかもしれない、と考え直した。眞清は上下のつながりはあまりない。せいぜい部活や委員会のメンバー程度だ。
「染めてるのよ」
 黒いじゃん、と言った少年に母はあっさり返し「せっかくきれいな色なのに」ともぼやいた。
「…あ、そうなのか…」
 そう少年は納得し、次の瞬間にまた顔をあげた。
「…ってか! ますみって女の子じゃなかったのか?!」
「――はぁ?」
 続いた言葉に、眞清は意識せず眉間にシワを寄せる。口調だけではなく、とうとう表情にまで『いぶかしい』という態度がでてしまった。
 女の子じゃなかったのか?
(自分をどう見たら女の子に…)
 名前だけだったら、そう判断されてもおかしくはない。――だから眞清はこっそり自分の名前が好きでなかったりする。
 だが、少年は自分を見て、話しているというのに…。
 眞清は目前の少年を見つめる。『穏やかそうな』と評されることが多い眞清なのだが…若干、睨みつけるようなモノになってしまった自覚はない。
 改めて、少年を見据え、観察する。
 黒い髪と意志の強そうな黒い瞳。
 眞清の視線に少年は怯まない。ただ…少し困惑したような顔はしている。その『困惑』は、眞清の視線のためではなく、『眞清が女の子じゃなかった』という衝撃だと予測された。
 何がどうして、『ますみって女の子じゃなかったのか』なんて発言が出てくるのか。
 というか、普通に名前を呼び捨てにされるほど親しい存在なんて…。
「――あ…」
 ――そう思って、昔を思い出す。

『絶対帰るから』
 いつだっただろう? …多分、小学校にあがる前。
『戻ってくるから』
 …自分は、はっきり言って泣き虫で。
『また、会えるから』
 ――離れたくない、と泣いて。
『だから、泣くな』
 お互いの小さな手で、指切りをした。

 思い出の中の少年は――黒い髪。
 目前の少年と同じような…黒い瞳。

「……」
 眞清は息を呑む。
 遠い約束。
『戻ってくるから』
『また、会えるから』
『だから、泣くな』
 ――今の今まで忘れてしまっていた…約束。
「…かっちゃん?」
 ぽつり、とこぼした言葉に相手が瞬く。
 そして「おう」と頷いた。

 
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