「お、ハヨ」
「………」
眞清は少しばかり驚いた。多分、表情の変化はなかったが。
「…おはようございます」
応じた眞清に相手はヘラッと笑った。相手は…昨日、眞清の家に挨拶に来た一方。かつての幼馴染み…とでもなるのだろうか。
「ナニしてんだ?」
それはこっちの台詞だ、と思ったが「新聞を取りに」と応じる。
眞清の家はほぼ生垣に囲われているのだが、一部だけブロック塀もあった。眞清の家の新聞受けは、そのブロック塀に組み込まれている。
「へぇ」
応じたかっちゃんはカバンを背負い、どこかに出かけるように見えた。
眞清は決して人懐っこいほうではない。…ないのだが…昨日の母の『仲良くしてね』という言葉のせいか、聞き返す。
「…こんな時間から、どこかに出かけるんですか?」
まだ、七時を回った程度だった。
眞清は今日から夏休みだから…おそらく、かっちゃんも休みだろう。こんな朝っぱらから一人で出かけるのだろうか。
眞清の問いかけにかっちゃんは「んーん」と軽く頭を振る。
「出かけるってか、散歩」
「……」
犬も連れずに、散歩。
(…まぁ、人の趣味なんてこっちが口出しするようなこともないですが)
ウォーキングというモノもある。
眞清は思考の隅でそう思いつつ「そうですか」と応じた。
「なんかチビの頃の記憶のせいか…道とか広かった気がするんだけど、今歩いてみるとそうでもないな」
かっちゃんは言いながら辺りを見渡した。
そういえばかっちゃんには八年の空白があるのか、と今更思いだす。
「なんか…知ってる場所なのに、知らない場所に来たみたいでワクワクする」
そんな言葉に眞清は瞬いた。あぁ、と思う。
かっちゃんがこの辺にいたのは小さい頃で、視線の高さも違うということもあるだろうが、記憶に残るこの周辺と、現在のこの周辺とは違うのかもしれない。眞清は引っ越さずにいたから、この周辺の変化と共に過ごしてきた。だから逆に、かっちゃんがまだいた頃…八年前との『変化』が、とっさにはわからないかもしれない、と思った。
「夢の中の場所に、現実で来るとこんな感じかな」
先程「ワクワクする」と言ったとおりに、そう言うとかっちゃんはまた笑った。
「…夢に見てたんですか」
眞清が問いかけると、かっちゃんは「たまにな」と応じた。立ち去った人が元いた場所を思いだす、懐かしく思う、ということか。
眞清は昨日までかっちゃんの存在を思いだすこともなかったのだけど…かっちゃんは、たまにはこの地を思いだしていた、ということなのか。
「ますみ」
呼びかけに、視線をかっちゃんへ向けた。そんな行動で、自分がいつの間に視線を落としていたのか…と知った。
目が合うと軽く手を差し出される。
「名前、どういう字? ひらがな?」
なんでそんなこと、と思った。知っても、何も変わらないような気もするのだが。
「眞清、です」
新聞を持っていた眞清だったが、『清』はともかく、『眞』の字はとっさに見つけられないだろうと考え、眞清は言いながら空に指先で字を示した。
けれど、かっちゃんは「ん?」と首を傾げる。…どうも伝わっていないようだ。
「ひらがな…じゃ、ないよな?」
「はい」
頷いた眞清にかっちゃんは先程より更に、手を差し出した。
「どんなん?」
「………」
眞清は差し出された手に、瞬いた。…この手のひらに記せ、ということなのだろうか。
(なんとも…)
人懐っこいというか、心安いというか。…どうも『異性』とは思えない。
「眞清、です」
眞清は同じ言葉を繰り返し、今度はかっちゃんの手に名を記した。
今度は伝わったらしく「へぇ」と頷く。
「ますみの『ま』って、『真』じゃないんだ」
「…旧字体です」
応じた眞清に「ふぅん」と手のひらを見ていたかっちゃんが顔を上げる。真っ直ぐな視線。黒い瞳が、眞清を見据える。
「眞清」
改めて、名を呼んだ。眞清の名を、呼ばれた。
というか…自分の名を、家族以外に呼ばれるのは久々だと思った。小学校に入ってからは、ずっと名字で呼ばれている気がするから。
「…はい」
応じた眞清に、かっちゃんはもう一度「眞清」と繰り返す。
なんなんだ、と思いながらも眞清は「はい」と再び返事をした。すると、かっちゃんが笑う。
「改めて、よろしくな」
真っ直ぐな視線と同じく…真っ直ぐな言葉を紡いだ。
「――はい」
眞清が頷くと「また遊ぼうな」とかっちゃんは笑みを深めた。
「じゃ」
ビシッと手を上げてかっちゃんは歩きだす。…その背を見送りかけて、眞清ははっとした。
「かっちゃん」
思わず呼びとめてから――こみ上げてくるのは、気恥ずかしさ。…この妙に気恥かしい感じは、なんだろう。
そんな密かな眞清の葛藤に気付いていないらしいかっちゃんは足を止めて「なんだ?」と振り返る。
「…すいません、その…」
呼び止めといてなんだが、なんと言葉を紡いだものか。
首を傾げるかっちゃんの様子を見るともなく眺め、眞清はそっと一つ息を吐き出す。
「…名前を、教えてくれませんか」
名前? と聞き返されて気恥ずかしさの理由がわかった。
父の影響なのか、眞清は誰に対しても敬語で喋る。――多少、相手を踏みこませ過ぎないための防御だったりするのかもしれないが。
そんな喋り方のせいか眞清は今、あだ名で呼ぶ相手がいない。
けれど…かっちゃんを呼ぶ時には、あだ名だから。――というか、かっちゃんの場合は名前を知らないから他に呼び方がない、ということもあるのだが。それでも…。
(なんだか、ガキ、みたいですね)
眞清は中学生の未成年で、世間一般の大人から見れば子供のくくりになることは理解しているのだが、そんなことを思う。
あだ名呼びがなんだかどうも、気恥ずかしい。どこか、むずがゆいような感覚だ。
「…ずっと、『かっちゃん』と呼んでいたので…名前を知らないんです」
そういえば、昨日父と母がかっちゃんの名前の話もしていたと思ったが、結局『かっちゃんが女の子だった』という眞清の衝撃で、その話題が完結することはなかった。
「名前?」と聞き返して、不思議そうな顔をしていたかっちゃんにそう説明をすると、納得したように「あぁ」と声を上げた。「そういえばそうか」とも呟く。
「あたしは、大森克己」
そう言いながら自らの胸元に手を置いた。
「――…」
かっちゃん…かつみが「あたし」と言った。そこに妙な感じがした。…相手をずっと男だと思っていたせいだろうか。
「大森、かつみ」
眞清はそう、繰り返す。『かつみ』で『かっちゃん』か、と思う。あだ名なんて大抵そういうモノだろうが…随分単純だな、とも。
「己に克つ、で」
克己は空に字を示した。別に聞いてない…とか言う場面ではないか、と眞清は「成程」と頷く。
「…克己…」
眞清が零したのは、小さなモノだった。空に視線を向けていた克己が眞清を見る。
「おう!」
明るく頷き、「かっちゃんでも克己でも、どっちでもいいぞ」と、晴れやかに言われた。
「…はい」
克己は少し考えるようにして、手を差し出した。この手はなんなのか、と観察するように見下ろす。
「よろしく」
それは、さっきも言われた。けれど…。
(あぁ…)
眞清は手を差し出す。眞清の手を、克己は軽く握った。
「…眞清、女の子じゃなかったんだなぁ…」
握手をしながらシミジミ言われた。眞清は思わず苦笑してしまう。――それを言うなら。
(かっちゃんは、男じゃなかったんですね)
言葉にすることはなかったけれど、そんなことを思う。
ある意味どっちもどっちか。互いに互いを同性だと思っていた…ということになるのだろうか。というか、小さい時には『性別』なんて意識していないというほうが正しいのかもしれない。
克己の手が離れた。
眞清と同じ程度の身長があるからか、手の大きさもそんなに変わりがないと思った。
今度こそ、克己の背を見送る。
(まぁ…)
新聞を家の中に運びつつ、思った。
(『よろしく』とは言っても、会わなきゃ付き合いも発生しないでしょう)
克己の人懐っこい行動にやや押されるようにして会話を交わし、握手をして…なんて朝っぱらから親しげな行為をしてみたが、眞清は冷静にそんなことを思った。