ガラガラと、玄関の開くような音がした。昨今としては不用心かもしれないが、眞清の家は昼間、家に誰かがいる場合には鍵を閉めていない。
「こんちは!」
声が居間まで届いた。克己の声だ。
「いらっしゃーい」
克己を言葉で迎えたのは母で、そんな母に促されて、眞清は玄関へと足を進める。別に慌てることもなく、ゆったりとした足取りで。
「来た」
ニッと笑って言った克己に「見ればわかる」と思いつつ「どうぞ」と上がることを勧めた。
先日は母親と二人でやって来た克己だったが、当然というべきか、今日は一人で来た。
朝の散歩の時にも背負っているカバンを今も背負っている。そんなに気に入っているカバンなのだろうか。
「眞清の家、久々」
「…この前も来たでしょう…」
「あれは挨拶だから。遊びに来たわけじゃないし」
克己の言葉に眞清は思わず一瞬足を止めかけた。
「…勉強するんじゃないんですか」
思わずツッコミをかます。
「ん? そーだよ」
頷いた克己に眞清は意識せず息を吐きだした。
「居間にどうぞ」
「おう」
眞清に続いて克己も歩く。
居間と台所は続いている。食事をするテーブルには母と父が揃っていた。
「こんちは」
母の顔を見て、克己はもう一度言った。「いらっしゃい」と、母が笑顔で応じる。
「こんにちは」
そう、笑顔で迎えた父にも克己は「こんちは」と繰り返す。
「えぇと…どこいい?」
克己はきょろりと軽く部屋の様子を見た。眞清は先日克己が腰を下ろしていた場所を示す。
「どうぞ」
眞清に促された克己は「おう」と応じて、ぺたりと座った。
ふと後ろを見て、カバンを下ろす。
ガサゴソさせながらカバンから出したのは数学の問題集だった。ちゃんと勉強する気はあるらしい。
(これで本気で遊びに来ていたとしたら腹が立ってきそうですが…)
そんなことを思いつつ、冬にはコタツにもなる長机に眞清もまた腰を下ろそうとした。
隣に腰を下ろすほど親しくないし、正面だと何かを教えるのに教えづらい。克己の斜め前に座ろうと思って、ふと止まる。
「…ちょっと、僕も学校で貰った問題集を持ってきます」
そう言い置いて、自室に向かった。克己が持ってきていたのは数学だ。眞清も数学の問題集を用意する。
中学最後の夏休みの宿題は、進級してすぐに配られた問題集を使って、全教科の総復習だ。一応受験生だから当然かもしれないが、結構な量となっている。
まだ正午にならずとも、気温はじりじりと上がっていた。木々のある庭のおかげで多少日陰は多いかもしれないが…それでも、暑い。
湿度が高いペタリとした暑さは、気を抜けば負けてしまいそうだ。
節電を叫ばれてはいるが、三十度を越えたらせめて除湿はしないと、辛い。
「…あぁ、同じ問題集なんですね」
居間へと戻った眞清は克己の持ってきた問題集を見て、口を開く。
問題集の表紙などどこでも大差ないと思ったが、克己が持って来た問題集と眞清が学校で配られた問題集は同じものだった。教えやすいかもしれない。
今更気付いたが、克己の持っている問題集はピカピカしている。
眞清は貰ってから三ヶ月経っていることもあって、雑に扱っているわけではないけれど、少しくたびれたようになっていた。
「中学に行ったら貰った」
「…あぁ、そうなんですか」
克己の言葉に頷きつつ、ふと思った。
――克己はどこの中学に通うようになるのだろうか、と。もしかして…。
(同じ学校でしょうか)
深く考えずとも…公立で、区間のことを思えば同じ学校だろうか。
「どこまで分かれば追いつける?」
克己の問いかけに「そうですね…」と眞清は自身の問題集をめくる。
「頭から始めて、この辺まででしょうか」
「…結構な量だな」
三年分だもんな、と克己がため息を吐くように、少し苦虫を噛み潰すような顔をする。
「えぇと…」
克己は口元に手を当てつつ問題集をめくった。これは大丈夫、ここも多分イケる…と小さな声で呟く。ふと、克己の問題集をめくる手が止まった。
「ここってもうやってるか?」
言いながら、眞清にそのページを見せるように広げる。
「あぁ、はい」
頷くと「ここ、教えてほしいんだけど」と眞清を見た。…真っ直ぐに。
ブレない克己の視線は、瞳の深い黒色のせいか、妙に強い印象となった。その視線を受け、眞清はゆるりと瞬く。
視線をゆっくりと外して、問題集に…克己の指先に視線を落とした。
その日は朝から夕方まで、昼食を挟んでまで勉強に勤しんだ。…克己が。
眞清も『復習する』という意味ではちゃんと意味があったのかもしれないが。
――まさか。
この日以来、週に五日…下手をすれば六日の勢いで克己が眞清の家で勉強して、たまに『息抜き』と称して連れ回されることになるとは思ってもいなかった。