「…聞いてるか?」
問いかけに一向に答えない眞清に、イクは少々声音を低くして言った。
…その程度で狼狽える眞清ではないが。
「はい?」と応じつつ、いつもの笑みを浮かべる。
そんな眞清の態度にイクは眉間にシワを寄せた。
シワを寄せてひとつ息を吐き出して。それから、繰り返す。
「背中のことは、克己が自分で言ったのか」
イクはそう繰り返す。
「……」
繰り返された問いかけに眞清は眞清は瞬いた。
克己の背中のこと。
『腰…ってか、背中が冷えると古傷が痛むんだよ』
――あの冬、古傷が痛むと言った。
眞清がその『古傷』を知ったのは、もっと後のことだったのだけれど。
※ ※ ※
中学卒業までの時間は着々と近付いていた。
「…何ビビってるんですか?」
「………あ?」
放課後のこと――眞清のある種唐突な問いかけに克己は少々眉間にシワを寄せた。
夕日が教室に差し込む。今日も結局、こんな時間まで学校にいた。
以前の眞清なら、委員会など用事がなければ早々に帰っていた。
だが、今は…克己が来てからは、一緒にいるように…振り回されるように…なってからは早々に家に帰るほうが珍しいくらいになった。
相変わらず眞清と克己が付き合っているらしい、という噂は消えない。一緒にいる時間のほうが長く、直接訊かれたりしない限り否定もしないせいかもしれないが。
帰る支度をしている克己は上着を羽織った。
眞清も上着を羽織ると、机の中に何もないことを確認する。
「今、なんて言った?」
克己は眉間のシワを緩め、聞き返す。
本当に聞こえなかったのか…聞こえなかったふりをしたのか。
思考の隅でそう思いつつ、繰り返す。
「何をそんなにビクビクしているんですか?」
先程より少しだけ丁寧な言い回しで、眞清は言った。その言葉に克己は再び眉間にシワを寄せる。
「…なんの話だ?」
「克己の話です」
あっさり言う眞清に、克己は瞬いた。その表情は「何を」という思いが露わになっている。
「……」
眞清は沈黙のまま見つめ返した。
一緒にいて――あの日から興味を持って、克己を見るようになって…さらにいうなら観察するようになって、気づいたことがある。
「背中」
眞清の単語に克己はピクリと反応した。言葉はない。
「…背後に立たれると、妙にビビってますよね?」
眞清の言葉に克己は瞬いた。
一度、二度…三度と。
「――そうか?」
克己はそう言ってヘラッと笑う。飄々とした笑みは…『境界線』なのか。
「気のせいと?」
言って、眞清は克己の腕を掴んだ。目を丸くする克己を半ば押さえつけて、無理矢理彼女の背後に回る。
「な…」
何を、と消え入りそうな声で克己は言った。
「気のせいと?」
眞清は背後から、克己の耳元でささやくように繰り返す。――この様子が見られればまた、噂が立つだろう。
眞清と克己がいちゃついていた、とか。
もういい、と眞清は思っていた。
自分と克己が付き合っている…と、もともとある噂だ。これ以上どうしようもないだろう。それに、どうせしばらくすれば卒業だ。
…今は周りの噂より、克己に興味がある。
自分でいうのもなんだが、眞清がこんなに他人に興味を持ったのは珍しかった。
「…意地悪ぃな…」
ポツリと零す克己の声が震えていた。…声だけではなく、肩が…触れた場所が、震えている。
「……気のせい、と?」
眞清は繰り返した。今日の震えは上着を羽織っているし、あの日のように寒気からではないだろう。
「――ヤなヤツだな、オマエ」
「それはどうも」
「褒めてねぇよ」
間髪入れず返されるが、覇気はない。克己の震えが止まらない。
「…たまには立場の逆転もいいでしょう?」
振り回されている、と――以前よりは感じなくはなったが――感じる眞清。
あの日と同じ言葉を呟く。
背後に立っている眞清に克己の表情は見えない。
…あの時のような表情をしているのだろうか。今もまた、あの時のような目をしているのだろうか。
「――…から…」
震えたまま、克己は言った。
聞き返した眞清に「言うから」と克己は小さな声で繰り返す。
「…だから…離してくれないか…?」
弱々しい声。
いつもの飄々とした調子はどうした、とつっこみたくなるような変わりようだ。
「……」
眞清は克己を解放した。
ほ、と息を吐き出すのを見て、本当に狼狽しているのだと再認識する。
「――で?」
「で?」
眞清に背後を取られないようになのか、克己は勢いよく振り返ると眞清と向き合った。早々に学校指定ではないカバンを背負う。
「…言うから離せ、と」
「なんだよ、そんなに興味あるかよ」
はい、と即答するのは…少しだけ気がひけた。というか、癪だった。
眞清の沈黙に克己はニッと笑う。
「眞清ってヤなヤツだけど」
「……」
正面きって言われるのは初めてのことである。…まぁ、正面きって言われるほど、態度が悪かったかと眞清は思い直した。
「意地も悪ぃけど、イイヤツだよな」
「――…」
思いっきり矛盾していると思うのは眞清の気のせいか。いや、気のせいじゃないだろう。
「はい?」
思わず問い返す。克己はまた、楽しげに笑った。歩き出す克己に眞清は首を傾げつつ、自分のカバンを掴んで続く。
「言うから離せ、でちゃちゃっと離してくれたじゃん。ホントにヤなヤツだったら『言ったら離す』とかなるだろうに」
「……」
その手があったか、と眞清は思った。
――だが。どこかで思っていた。
あの震えは本当に、克己が動揺していると思ったのだ。…本気で、怯えていると。
だから、押さえ続けていることが出来なかった。…出来なくなった。
ゆるゆる歩いている眞清に、克己は廊下から「帰るぞ〜」と声をかける。
「…はいはい」
ため息混じりに眞清は応じた。…結局は、はぐらかされたようだ。
克己の傍にいてわかったのは…『背中』に何かあるらしいということ。
そういえば、と思う。
(前に古傷がどうの…って言ってましたね…)
そして、克己は夏休みの散歩の時にも『背中』を隠すようにカバンを背負っていた。
…所々に散りばめられているらしい『本当』。
興味がある。…知りたいと、思う。
彼女のこと。
――自分の知らない克己の過去。
(…予定外、ですね…)
予想外というべきか。
振り回されるのは迷惑なばかりだったのに。
――その振り回される時間の中に克己の過去の一部が紛れているのかと思うと、付き合ってもいいかな、と思う。
…あの時のような表情は滅多に見ないけれど。けれどたまに――本当に、時々見る。
揺れる瞳を。此処ではないどこか…遠くを見る克己を。
あの瞳はどこを見ているのか。何を思っているのか。
遠くを見る瞳に何を映し――誰を、思っているのか。