「眞清?」
自分を呼ぶ声にハッとした。
克己の声だ。
「……」
答えずに、ただ見つめる眞清に克己は少し首を傾げた。
「ボーッとしてるな。…気でも抜けたか?」
その言葉に瞬く。
「――そうですね…」
昨日、卒業式があった。
関係ないことだが、克己は結局制服を着ることなく中学を卒業した。
卒業式の当日には、黒っぽいスーツのようなモノを着てきて、ある意味目立っていた。
それはさておき――卒業式の翌日である今日は合格発表で、同じ高校を受験した眞清と克己は見事合格していた。
眞清としてはそんなに喜ぶほどのことではない。「あぁ、自分の番号あった」くらいで、落ちるとは思っていなかった。…克己は結構喜んでいたが。
「またヨロシクな」
ニッと笑う克己と、差し出された手。
瞬いてそれを観察し、間をおいて眞清は少しだけ笑った。
「…しょうがないですね」
「やっぱお前ヒドイよ、そことなく」
その手を握り返した眞清に克己は再び笑う。
飄々とした笑顔。
あの日以来――結局はぐらかされたまま。
いつ『言う』のだろう。…それとももう克己から『言う』つもりはないのか。
(――また…)
背後をとって脅すようなマネをするのは気がひけた。
あの時の、奮え。…怯えていると思えるような、少女。
わかっていて、やることはできなかった。
確信しているのに脅すような真似はいくらなんでもできなかった。
「眞清?」
繰り返し呼ばれてはっとする。
「ボーっとしてると乗り過ごすぞ」という言葉に「そんなヘマはしません」と応じた。
次の駅が最寄り駅だ。…これから三年間、電車で通うのかと頭の隅で思った。
「なぁ、眞清」
電車から降りる。ホームを歩きながら呼ばれて、眞清は改札口を通ってから克己へ振り返った。
中途半端な時間のせいかホーム内はそんなに混雑してはいない。
「今日ってなんか予定あるか?」
「予定…ですか?」
なぜ突然そんなことを。
そう思いながらも「ありませんよ」と答える。…十中八九、「何処かに行こう」と言うのだろう。
その言葉に「じゃあさ」と克己は眞清を追い抜いた。襟足の長い…後ろで一つにまとめた髪がはねる。
「海、行こう!」
「……」
何処かに行こう、と言われるとは思っていた。思っていたが…。
「…はぃ?」
海?
予想外だった『何処か』に眞清はかなりの間を置き、妙な声で聞き返した。そんな眞清に克己はニッと笑って見せる。
「っちゅーわけでとっとと帰るぞ!」
「『っちゅーわけで』…って…」
とっとと進む克己…今日も背中をカバンで覆っている…を追いかけた。
駅から家までは大体十五分。
家に帰ってのんびり…なんてすることなく、ほとんど間をおかず克己が迎えに来た。
「デートですか?」と自分によく似た父親(正確には眞清が似ているわけだが)に声をかけられ「出かけます」と応じる。
今日も今日とて振り回されているのだ。
デートとは違う、と眞清は思った。
「――振り回されているのを容認していればデートですよ」
「…何か?」
そことなく聞こえた声に振り返る。
「何も…?」
父の浮かべた笑み。
玄関のほうに視線を向けながら「待っていますよ」と続いた言葉に眞清は目を細める。
…言葉で父に勝てた例がない。いずれは勝ちたいものだ。
「行ってきます」と繰り返し、克己の待つ玄関へと向かった。
※ ※ ※
「う、みーっ!!!」
自転車をこいでおよそ三十分。駐車場になっている広場の端に自転車を置いて、二人は砂浜へ向かった。
克己は両腕を空へと伸ばし、海に向かって叫ぶ。
潮のにおいと、風。今は結構風が強い。
髪をかきあげて、眞清は目を細めた。
自力で来られる距離だからこそ、わざわざ海に来ることは少ない。
眞清が海に来るのは久々だったりした。
人の姿は眞清と克己の二人だけで、こんな中途半端な時季と時間と…どちらにせよ物好きはいないようだ。
「――って…」
克己が叫んだ後、海に突進している様に、思わず、声が漏れた。
(…ガキですか)
あのまま海に入って言ったら本当のガキだ、と思いながら眞清は止めず、動向を見つめる。克己は流石に海に入りはしなかった。波打ち際ギリギリまで行って、寄せては返す様子を見ているらしい。
(…背中)
眞清と克己の間に、大分距離ができた。
二十メートル近く離れているのではないだろうか。
今もカバンを背負っている克己の後姿が、小さい。
教室でも、克己は『常に』というほど背中を見せることがない。壁に背をあずけたり、カバンを背負って背中と人間の間に壁を作っている。
静かな時間が流れた。
克己は第一声以来声をあげていないし、眞清も声を出していない。
波が砂の上を走る音だけがただ、響く。
ザザー…ザー…
夕日が眞清の背のほうへ、遠く沈んでいく。
海と空の境界線が曖昧になる、不思議な空気の色。
眞清の目が少しよくないせいもあるのだろうが、暗くなってきたせいで克己の姿が見えづらくなってきた。
『誰そ彼』――黄昏とはよく言ったものだ。
もし何人か人がいれば、克己がどれかわからなくなっている気がする。
ザザン…ザザー…
眞清が自分の意思で海に来ることはないと言ってもよかった。
…けれど。海は嫌いでないな、と思う。
波の音は心地好いし、潮風も潮のにおいも悪くない。
波の満ち干を眺めていると、心がどんどん静かになっていく。
何も考えていない…わけではないのだろうが、思考が白くなっていく。
不思議な感覚だ。眞清は目を閉じた。
――目を閉じれば波の音、潮風、潮のにおいをより一層感じられるように思えた。
ザザン…ザー…
波の音が近く――遠く、聞こえる。
どれだけそうしていただろうか。
サクサク、と。波の音でない音が眞清の耳にとどいた。発信源はおそらく克己。
眞清はゆっくりと目を開く。離れていた克己が、近づいていた。
あと三歩ほどで並ぶ…という辺りで止まる。
光源のない浜辺は黄昏も過ぎ、すでに宵闇と言える。
克己の表情は、よくわからなかった。
互いに手を伸ばせばとどきそうな距離だが…見えなかった。
いつものような飄々としたものか。――それとも…眞清の見慣れぬ、不思議な表情なのか。
「――眞清」
呼びかけは低く、通った。
克己の声はもともと高いわけではないのだが、いつもよりさらに低い。
「あたし独り言、言うから」
「………は?」
わざわざ宣言? なんの意味が…。
何か言葉を紡ごうと考えた眞清より早く、克己が口を開く。
「聞いてもいいぞ」
「…は、あ…」
マヌケな声しか出てこない眞清。克己はそれを笑ったりはしなかった。――いつもならば笑うであろう、眞清の様に。
「大事な奴がいた」
聞いてもいい、というわりに声は大きくはなく。――独り言、というにははっきりと…けれど淡々と、呟きが聞こえた。
波の音に意識を向ければ、そちらに集中できそうな声音。
けれど眞清は、克己に意識が向いていた。
脳裏で繰り返される、克己の声。
『大事な奴がいた』
眞清は瞬く。…自分の知らない克己の時間。
傍にいなかった――離れていた約十年を思う。
(――大事な奴、が)
克己と、眞清の知らない誰か。
――笑う克己と隣で笑う…誰か。
(…いた…)
キリ、と何処か軋んだように思えた。――眞清は我知らず服を掴む。けれど、気付いた。
『いた』という言葉。…過去形の言葉に、眞清は再び瞬いた。
「もう、会えない…あたしから、会いに行けない」
続いた言葉は静かで。――けれど何処か、痛みをはらんでいるように感じて。
眞清は顔を上げる。表情の見えない克己を見つめる。
「――コワイんだ」
いつも飄々として…たまに見慣れない表情をする克己の口から『コワイ』なんて出るとは予測していなかった。初めて聞いたような気がする
「…会うのが、コワイんだ」
そう言って、克己は俯く。――沈黙が流れる。
「………」
『コワイ』と言って、沈黙する…そんな克己に、眞清は一歩近づいて腕をのばした。
※ ※ ※
「克己から聞きましたよ」
大分間を置いて、眞清はイクに応じた。
イクはじっと眞清を見据える。
サングラス越しでも『見られている』というのがわかる、強い視線。
「背中のことは…克己から聞きました」
眞清はイクの問いかけに答えを繰り返す。
「…克己から、か…」
低い声でイクは呟いた。
そして何か考え込むようにふと、視線を足元へと落とす。
『背中のことは、克己が自分で言ったのか』
今度は眞清がイクを見つめた。
先程ほどでもないようだが、今もまたじっと考えているらしいイクを見つめる。
(…あの言い方では――)
眞清はわずかに目を細めた。
イクの口調からして、イクは克己の背中のことを知っているのだろう。
…この男は、どこまで知っているのだろう?