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⑤ポジション
<決心>

 腕を伸ばし、眞清が触れると克己はビクリと反応した。
 克己は顔を上げる。触れるほどに近づき、宵闇に慣れたらしい眞清の目に、克己の表情が映る。
 揺れる黒い瞳。映るのは、自分。
 ――それから、言い表せぬ感情。
「……どうぞ」
 触れた腕を離し、眞清は言った。

 ――細い、腕。
 その沈黙で…眞清は克己が泣くのかと思った。…涙しているのかと。
 眞清は瞳を克己から海へと移す。
 揺れる瞳は、けれど涙に揺れているわけではなかった。
「どうぞ、続けてください。独り言を」
 そのことにどこかほっとした自分がいた。
 なぜ、と眞清は思う。
 …そもそもなぜ、腕を伸ばしたのだろう。
 なぜ、克己に触れたのだろう。
 なぜ、と自問を繰り返す眞清の視界の隅で克己が消えた。
 座り込んだらしい。
 ただぼんやりと立ち続けているのは、案外苦痛だった。眞清も克己に倣い、座る。
 潮風が髪を揺らした。
 絶え間ない波の音。音は、そのくらいだった。
 静かな時間だ。

「背中刺されてさ」

 ポツリと。まるで『風がふいてるな』というような。
 そんな、口調。
「…え…」
 眞清は聞き間違えたのかと思った。
 瞬いて、考える。
 字の変換を試みる。
 さされた? 指された? ――刺された?
『刺された』という言葉が脳裏に浮かんだとき、眞清の背中がざわりと粟立った。
 色んな事件が発生している昨今。
 現実は小説より奇なり…なんていう事件は多数あるし、眞清の読む小説にそんなシーンは点在していて、珍しいことではない。
 ――けれどソレは、遠い話で。
 今まで眞清の世界でそんなことはなかった。
 視線を克己へと向ける。克己は海を見たままだ。
「あたしが、傷つけて…」
 眞清はポツリポツリと溢す独り言に、ただ克己を見つめた。
「一緒にいるって言ったんだ。――けど、引っ越しただろ? …引っ越すって話をしたら…それで、パニックしたらしくて」
 そういえば…克己達は本来、春に日本に戻ってくる予定だったのが夏に延期になった、と聞いた気がする。…克己が刺されて、その治療に時間がかかって…日本への帰国が遅くなったということなのだろうか。
「――自分で傷つけたくせに…結構ショックでかくて」
「……」
 海を見つめ続ける克己。
 ――海を見つめて、そして…大切な『誰か』を思ったのか、目を細めた。
 その表情は、『痛み』のように思える。
「…だからいまだに、駄目なんだ」
 何が、と言わずともわかった。――だから背中を晒すのを嫌がるのか。
 大事な『誰か』に背中を刺されたというのなら。――その『大事』な誰かが『信頼』していた誰かだというのならなおさら。
(…だから…)
 あんなに、震えたのか。
 信じていた存在に傷つけられれば、信じていない赤の他人は余計に信じられず――恐怖の対象となるだろう。
 飄々とした克己。――飄々として、一定のラインを保つ克己。
 誰か…他者を信じたいと――信じようと思っても、『信じていた人間に傷つけられた』という過去で踏み込んでいけないのだろう。
「――…」
 克己の言葉が眞清の中で波紋のように広がる。
 眞清が背後に立ったとき、克己は震えた。――動揺して…怯えて。
 当然だろうと思う。大事な『誰か』に傷つけられた過去があるのだから。
 …なぜだろう、と思う。自分はまだ、背中を晒すほどには信じられていないのか、と。
 眞清は遠くを見つめる克己から視線を外した。ゆっくりと瞬いて思考を切り替えようと二、三度頭を振る。
「…以上、独り言終了」
 宣するように言うと克己は立ち上がる。

 お疲れさまです、というのも何かおかしい気がして眞清はただ見つめた。
 克己はそんな眞清の視線に気付いたのか、眞清を見つめ返す。
 切れ長の黒い瞳。瞳は夕闇のせいか更に深く、黒い。
 唇に言葉をのせようと、眞清は口を開いた。
 けれど。
(何を…)
 告げようというのだろう、自分は。
「――克己」
 そう、思ったのに…眞清は自然と名を呼んでいた。
 強い風がふく。それぞれの髪を揺らした。
「……」
 言葉に詰まる。
 自分は、何を言おうと呼びかけた?
 背中を晒すのが怖いという克己。
 飄々としていて、正直弱みらしい弱みなどないと思っていた克己の…弱み。
「――これで、互いに弱みを知ったことになりますね」
 そんなことを言おうと思ったのだろうか、自分は。
 唇から勝手に零れ落ちた言葉に眞清は少々慌てる。――何を続けようと思っている?
 どこかでそんなことを考えている自分がいた。
「眞清の弱み?」
 克己の「なんだ?」というような口調に「写真ですよ」と答える。あぁ、と頷いた克己に眞清はひとつ息を吐き出した。
 中学を卒業したが、未だに克己は眞清の小さい頃の写真…今にも泣き出しそうな、まるで女の子のような写真…をきっちり持っているらしい。
「人がなんの写真持ってようと自由だろ?」
 ってか、ぶっちゃけるとあの頃の眞清メチャクチャかわいくて好みなんだよなーとか続いて眞清は、今度は大きく息を吐き出した。
「…そうですか」
 それはさておき、と眞清は克己の目を真っ直ぐに見つめた。

 最初は無理矢理振り回されていただけだった。けれど、いつしか克己に興味を持つようになった。
 ――昔は憧れだったかっちゃん。
 眞清よりもずっと体力があって、勇気があって、活発で…かっちゃんに憧れていた。性別なんてその頃は意識していなかったのだろう。けれど――『好き』だった。
 少し前までそんな感情は忘れていた。
 ――けれど今は。
 好きか、嫌いか…の二者択一であるならば…『好き』に分類される存在になってきている。
 苛立ちながら、二度ばかり耐えきれず…キレながら、それでも離れなかったのは――母の「仲良くしてね」と「一緒にいてあげてね」という言葉があったから。…でも、もしかしたら…それだけではなかったのかもしれない。
 小さい時の憧れが…かっちゃんに対する「好き」という思いが、眞清の中に根っことして好意が、残っていたのかもしれない。
 そして今は…気になるのだ。『克己』に、興味があるのだ。
「貴方の背中に、僕がなりますよ」
 …一緒にいてもいいと思うのだ。こんな言葉がポロッと零れるくらいには。
「…あ?」
 眞清の申し入れに克己は素っ頓狂な声を上げた。
「貴方の背中に、僕がなります」
 眞清は繰り返した。

 晒すのがこわいというのなら――背負うものがなく、克己の背中が無防備になってしまうというのなら。
 一緒にいて、克己の背中を見守ろう、と。そう思った。
「――本気、か?」
 眞清の言葉にたっぷりと間を置いて克己は聞き返した。
「…ってか…」
 克己は口元を覆った。
「お前…振り回されるのゴメンだ、とか…言ってなかったか?」
「言いましたね」
 眞清のきっぱりした口調に「だよなー…」となんとも言い難い表情の克己。
 眞清はその表情に、笑ってしまう。

 確かに、克己に振り回されるのはごめんだった。
 ある程度の付き合いはする。団体行動から外れない。
 けれど、自分から踏み込むことはしない。
 単独行動のほうが慣れていたし、誰かに関わったりするのは、面倒だとすら思っていた。
 浮かず、つかず、離れすぎず――それが、眞清的な他者との距離間だった。
 けれど…克己が、気になるのだ。興味があるのだ。
「――いいですよ」
 一緒にいてもいいと。…一緒にいてみたい、と。
「克己の背中に、僕がなります」
 言わないけれど――傍にいたいなどと、思うのだ。

 繰り返した言葉に克己はじっと眞清を見つめた。
 本当か? と探るようにも…本当に? と、確かめるようにも見える。
「…名前…」
 ぽつりと落とされた克己の呟きに首を傾げた。口の中だけで「名前?」と繰り返す。
「今、克己って呼んだな」
「…呼びましたね」
 応じて、意識せず口元を覆った。…塞いだ、というほうが正しいかもしれない。
「眞清に克己そうやって呼ばれるの、初めてだ」
 克己の言ったとおり――眞清は初めて、克己の名を呼んだ。
 克己が日本に戻ってきて…数度『かっちゃん』と呼びかけたけれど『克己』と、名を呼んだのは今日が初めてのことだった。…それまで呼びかける時には「すいません」とか、名ではなかったから。
 克己が、笑う。なんでか、笑顔を見せる。…それは、本当に嬉しそうにも見えて。
「さんきゅ、眞清」
 宵闇の中でも、その笑顔はわかった。

 知りたいと思った。――傍にいたいと思った。
 克己の背中になってもいいと、思った。
 背中を見守る場所に、自分が在ることができればいい、と。
 帰るか、と言われて…並んだ。
 隣に…傍らに、並んだ。
 元幼馴染み。友人。クラスメイト。
 この関係に、今は名前などつけられない。…けれど。
(――このポジションは、僕のもの)
 胸の奥に落ちて…妙にしっくりした思いを確認するように、眞清は意識せず胸元に手を置いた。

 
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