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④コエ
<call>

「アサエちゃん」
 靴を履き換えたあたしは、美術室の窓の外からノックして、アサエちゃんに声を掛けた。
「ゴメン、ちょっと用事思いだして…今日、帰るな」
「え、あ…うん。付き合ってくれてありがと」
 急な話にも関わらず、アサエちゃんはあたしを追及してくることはなかった。
「気をつけてね」
「ああ」
 あたしはアサエちゃんと、美術部のメンバーに軽く手を上げる。
 駅に向かって歩きながら…その足は、ちょっとばかりかけ足になりそうな勢いだった。

 駅に到着するとまるでタイミングを図ったかのように警報が鳴って、遮断機が下りる。
 あたしが乗るほうの電車か…と右側を見ていると、ガタンガタンという音が聞こえて、電車のライトが見えた。
 あたしはそのまま後ろの車両を目指して歩く。
 ドアの開いた電車はいつもより人が多く、壁際が空いていなかった。
 カバンを背負ってるんだから大丈夫、と自分に言い聞かせて、吊革に掴まった。
 意識が背中に集中する。
『誰か』がいるのがわかるから…だけではなく、引きつるように――軋むように痛む気がするから。
 あたしは一つ息を吐きだす。

『克己が好きですよ』
 眞清の声があたしの中で繰り返された。
 ――冗談だろうか。
 そう思って、「いや」とも思う。眞清はそういう冗談を言うヤツじゃない気がした。
 …ついでに、あんなにイラついたような状態で冗談を言うようなヤツじゃない、とこっちに帰ってきてから一緒に過ごした時間で予想した。
 そんなことを思いながら我知らず、唇をかむ。
(なんで? どうして? ――いつから?)
 吊革に掴まる指先が震えた気がした。
 そんな自分に「くそ」と思いつつ、吊革に掴まっていない左手を握りしめる。…握りしめた手も、震えていた気がした。

 ――眞清と更科の会話を、盗み聞きしてしまった。
 眞清の、声。
『克己が好きですよ』
 ――それを聞いて、あたしはその場から逃げだした。
 あたしはある意味、眞清を探して教室に行ったはずだった。――でも、眞清の言葉を聞いてしまったら…一緒には、帰れない。そう思った。――思ってしまった。

『カツミが好きだよ』
 レオンの声。
『大好きだよ』
 ――繰り返された、言葉。

『傍にいてくれるって言ったじゃないか――!!』
 …あの声は、今も――耳の奥に、残ったまま――また、背中の痕が軋んだ気がした。

※ ※ ※

 父さんの仕事の関係で小学校に上がる前の春に、家族四人でアメリカへと引っ越した。
 泣き虫なますみと別れることになって、泣かれるのは辛かったけど、笑って「帰ってくる」っていう約束ができたのは…どちらかというと、あたしはその時はまだ日本とアメリカっていう『距離』を認識していなかったのかもしれない。
 遠いと言ってもすぐ会える。離れていても、また会える。
 そう、信じていた。
 ますみの家の隣の、今まで暮らしていた家の管理を親戚に任せ、飛行場に向かい、飛行機に乗って…アメリカで暮らすことになった家に到着してからようやく――泣くことはしなかったが――ますみとの『距離』を思い知った。
 なんだこの『距離』。これじゃあすぐに、ますみに会えない!
 結構、ヘコんだ。
 連絡をとる手段…今なら手紙とか、電話とか、メールとか。思いつけるけど、その時は全然思いつけなくて。
 ――だから、絶対に約束は守ろうと思った。
『絶対、帰ってくる』
 ますみに言った約束は、守ろうと思った。子供なりに一生懸命に考えて、決心した。

 アメリカの家は、父さんの勤める会社が用意したある意味社宅みたいなアパートだった。
 隣の部屋には既に入居者がいて、親子三人暮らし。
 ――そこにいた子供が、レオンだった。

 まだあたしにはよくわからない英語言葉で父さんが挨拶をする。
 顔見せの意味もあったのかもしれないが家族全員で「よろしく」みたいなことを言った。
 隣の部屋で暮らしていた夫婦はうちの両親と同じくらいの年で子供――レオンは、あたしより一つ下だと紹介してくれた、らしい。父さんがそう教えてくれた。
 恥ずかしがり屋なのか、黒髪の人間が見慣れなかったのか…しばらく、レオンは母親の後ろに隠れるようにしていた。
 けど…そのレオンが、まるで。
『かっちゃん』
 ――ますみよりも肌が白くて、髪の癖も強くて…目も、青かったのだけど。
 全然、違っていたのだけど。
 ――あたしには、もう一人のますみ、みたいな感じに思えて…仲良くなりたいと、単純に思った。
 隠れるようにしていたレオンを覗きこんで、青の瞳を見て『キレイな目』なんて感心しながら「こんにちは」と言った。まだ英語は知らなくて、日本語のまま。
「かつみ、だよ」
 瞬くレオンに、あたしは笑った。
「ともだちになろ」
 母親に促されてレオンがおずおずと手を差し出した。
「克己、握手」と父さんに言われて、あたしもまた手を差し出して、握った。
 握ったままいくらか上下に振るとレオンがちょっと不安そうにあたしを見たと思った。だから、笑った。
 うかがい見るような、不安げな瞳。
 青い瞳と琥珀色の瞳と…その色は、違ったのだけど。
 あたしの中でますみみたいだと思った。――そんな顔しなくていいよ、って思った。
「なかよくしよ」
 日本語のまま伝えた言葉はきっと、レオンには伝わらなかった。
 でも――少しだけ、レオンが笑ったのを見て、あたしはなんだか嬉しい気持ちになったことを覚えている。

 レオンとは、言葉があんまり通じ合わないうちから仲良くなれた。
 レオンが心を開いてくれた…とでもいうべきか。
 母親の陰に隠れるようにうかがっていたレオンだったけど、何度か顔を合わせているうちに慣れたのかもしれない。
「カツミ」って呼ばれた時、嬉しかったな。
 少し泣き虫なところが、ますみに似ていた。
 言葉がわからないうちはレオンが泣いている理由もわからなくて、どうすればいいかもわからなくて、レオンの名を呼んでただ抱きしめた。
 一つとはいえ、年下だと聞いていたし「優しくね」と母さんに言われてもいたから。
 ある意味、英語はレオンから教わった。
 家族で話す言葉も、通うようになった学校の言葉も日本語だったけど、レオンとの会話はやっぱり英語でしかできなくて。
 だからこそ、レオンと会話するために上達した…とも言えた。

 なんでか、あたしの印象で…レオンはいつも、不安そうな顔をしていた。
[カツミ]
 あたしの名前を呼びながら、不安そうに…顔を見るときはうかがうようにして、見た。
 だからあたしはいつも、笑った気がする。
 そんな顔しなくていい、って。――そんな泣きそうな顔をしなくてもいい、って。
「なんだ、レオン」
 応じると、レオンはほっとしたような顔をした。名を呼ぶと、レオンは笑顔を見せた。
[カツミ]
 ――呼ぶ声と、可愛い笑顔につられてまた、あたしは笑ったような気がする。

 流石に三年もすれば英語にも慣れて、レオンとはもちろん、英語での会話に困ることなくできるようになっていた。

[カツミ!]
 呼びかけたのが誰なのか、振り返らなくてもわかった。
[レオン]
 レオンとあたしの通う学校は違った。あたしもイクも日本人学校に通っていたから。
[おかえり]
 レオンは人懐っこいというかなんというか…よく、ハグをした。
 もう慣れていたあたしも「ただいま」とハグをする。
 兄弟がいないレオンはよくウチに来ていた。
 勉強の内容とかは違ったけど、一緒に勉強したりオヤツを食べたり、と。
 六つ上のイクも、あたしと同じように、弟みたいにレオンを扱った。
「イク、髪切って」
「…またか」
「首がチクチクする」
「しょうがねぇな」
 前から手先が器用なイク。一度切ってもらってから、「別に変じゃないわねぇ」なんていう母さんのお許し(?)もあって、気になるとちょくちょくイクに切ってもらっていた。
 髪を切る間にも、レオンは同じ部屋にいた。ただ見てたり、雑談したり。
[レオンも切るか?]
 冗談か本気か判断しかねるイクの問いかけにレオンは瞬く。切ってもらってさっぱりしたあたしはレオンを見た。
 出会ったときからクセのあった髪。
 小さい時よりクセが落ち着いて、くるくるしてる、っていうよりふわっとしている。
[レオン、ちょっとだけ伸ばしてみれば?]
 ふわりとした髪は、レオンの少し垂れ目なところとよく合っていた。
 あたしはレオンの髪に触る。一本一本が細いのか、見た目通りに柔らかな金髪。
[…カツミがそう言うなら、伸ばしてみる]
[そっか]
 どんな雰囲気になるかなーと、レオンのクセのある髪を軽く引っ張った。クセがある分、ちょっとだけ伸びる。
[レオン、別に克己の言うことなんて気にすることないぞ? お前がしたいようにしろ]
 イクがそう言えば、レオンはふわりと笑った。
[いいんだ。おれ、伸ばしてみる]
「勝った」とイクにVサインを見せると「なんの勝負だ」とちょっとため息をつかれた。
[でも…レオン、本当にレオンが切りたくなったら無理に伸ばさなくていいからな?]
 あたしがそう言うとレオンがまた[うん]と笑って見せる。
 女の子っぽいわけじゃないけど、笑顔のレオンは小さい時から変わらず、可愛かった。

 
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