どう言えばいいだろう。
――そう迷っているうちに、一年近く経ってしまった。
地道に引っ越す準備も始まって…家の中身が減っていく。
棚とか、大きいものももちろん、服も、気に入ったもの以外は結構売ったり譲ったりして案外、荷物は少ない。
思い出の写真がいっぱいで、アルバムがいっぱいになった。
…そういう意味では荷物は少なくないか。
また、イクに髪を切ってもらっていたら、レオンが遊びに来た。
着々と進む引っ越し準備と同時に、どんどん広く…がらんとしてくる部屋の中。
レオンだって気付かないはずがない。
[…随分部屋が広くなったね]
小さな呟くような声に、心臓がぎゅっとなった気もした。
[引っ越すからな]
あたしの代わりに、でもないけどイクが答える。
[…引っ越す?]
[ああ]
繰り返したレオンの様子に、イクがあたしの耳元で「まだ言ってないのか」と小さく言った。あたしは頷く。
「…お前が、自分で言うか?」
「――ああ」
「そうか」とイクがあたしの髪をくしゃくしゃとする。切った髪の毛がバラバラと落ちた。「掃除機持ってくる」とイクが部屋を出ていく。
背もたれのない椅子に腰かけたまま、レオンがいることは分かっているんだけど――あたしは、振り返れないままでいた。
[カツミ…引っ越すの?]
[…ああ]
[――何処に?]
レオンの問いかけに…さっさと言わなかった――言えなかった自分を恨めしく思った。
自分の馬鹿野郎、と息を吐き出す。
[イクは、大学の傍のアパート]
[…カツミは]
レオンの問いかけにあたしはもう一度息を吐き出し、覚悟を決めた。
[父さんと、母さんと、日本]
[――……]
返事がなかった。…当然か、とも思った。
レオンに「好きだ」とか「大好きだ」とか言われる度に――その瞳を見る度に、引っ越すことを言おう言おうと思っていても言えなくなった。…でも、こんなの言い訳だよな。
「なんで」とか「どうして」と言われれば答えようと思った。
約束があること。――帰ることを、自分で決めていたこと。
約束を果たして…日本の空気に触れてみて、合う合わないを判断しようと思っていること。
――今のあたしは、約束を果たしたらアメリカに戻ろうと思っていた。
イクがいるから、住むところもどうにかなるだろうし。
…レオンが大切だから。――不安そうな瞳が、放っておけないから。
[――やだ…]
聞こえた言葉に、「え」と思った。
[やだ…やだ! ――やだ!!]
「……」
あたしは唇をかんだ。
返ってきたのは…問いかけではなく、レオン自身の感情。
声に、心臓が軋むような錯覚がした。…レオンのそんな声を聞くのは、初めてだった気がした。
レオンは大抵、笑っていて――不安そうな瞳であたしを覗き込んだとしても、最終的には笑うから、こんな…ある意味、ヒステリックとさえいえそうな声を聞いたのは、多分、初めてのことだった。
カタンカタンと、レオンの近付く音が聞こえた。
部屋のモノが少ないから、足音も妙に響く。
[おれより…マスミが大事?]
さっきより、近い声。――背後に近付いたのがわかる。
そういうわけではない、と言葉を続けるよりも早く、レオンが口を開いた。
[嫌だよ…おれだけ見ててよ…]
レオンが背後から、あたしを抱きしめた。
[おれだけに優しくして…他の人に優しくしないで…]
力が強くて、苦しい。
[カツミ]
指が腕にいくらか食い込んで、痛い。
[行かないで…――行かせない…]
抱きしめられて苦しいのと、痛いのと――
[おれだけの、ものに…]
――言葉に宿る感情が、思いが苦しくて…痛いくらいで。
[――放せっ!]
思わず、あたしはもがいてレオンを振り払って、立ち上がった。
立ち上がった拍子にガタン、と椅子が倒れる。
心臓の鼓動が、やけにうるさかった。
今も、レオンの指が食い込んだ腕に痛みがあった。
自分の指先が震えていたのに気付いた。なんの震えか、わからないまま。
――振り返れなかった。振り返らずに、言葉を続けようとした。
[なんで…]
――泣きそうなレオンの声。
[一緒にいるって…]
…カシャン、と何か金属めいた音がした。
[傍にいてくれるって言ったじゃないか…っ]
指先の震えが止まった。…背中に、妙な熱を感じた。
熱と、重みと――冷たさと、再び熱と。
熱が、痛みだと…重みが、レオンの力だと気付かないまま。
あたしは、その場に前のめりになる。倒れこむ。
膝と腕から床に叩きつけられた。
叩きつけられた膝と腕よりも、背中の熱が…痛みが、脳みそに届く。
熱い。苦しい。
痛い。――熱い。
「――ぇ…」
うまく声に…言葉にならなかった。――現状が理解できなかった。
体を支えていた膝と腕に力が入らなくて、倒れこむ。
背中の焼けるような痛みに、呼吸もちゃんとできない感覚。
横倒しになった体。背中の痛み。今更ながら、腕と膝の痛み。
痛い。熱い。苦しい。
息が、うまくできない――。
そしてあたしはレオンを見た。
涙に濡れた青い瞳。
白い頬も、溢れた涙に濡れる。
白っぽい長袖Tシャツには、赤い模様が点々としていた。
振り上げた手に握られたものに、あたしの息が止まった気がした。
――ハサミだ。
イクがあたしの髪を切っていた、ハサミ。
先端が、赤く濡れている。
よく見れば、レオンの手と服の袖口も、赤の模様が点々としている。
…その赤は、模様じゃない。あたしの、――血か。
なんで、と思った。
こわい、とも思ったはずだった。でも、どこか冷静に現状を把握する。
妙にスローモーションに感じながら、レオンを見上げた。
その手を、見た。――涙に濡れた顔を、見た。
「レオン?」
イクの声を、遠くで聞いた。
「――克己?!」
レオンの手のハサミが振り下ろされる前に、イクがレオンを止めたのが見えた。
イクがレオンを羽交い絞めにして、手からハサミをたたき落とす。
[――いやだ…]
「母さん!!」
レオンとイクは、それぞれ悲鳴みたいな声をあげていた。
[いやだ、いやだ…いやだ――っ!!]
「克己…っ?!」
それぞれの声と、背中の熱と…感じながら、あたしの意識は途切れた。
※ ※ ※
「――っ」
急に息が苦しくなって、あたしは自分の胸元を掴んだ。
――大丈夫。
背中には、壁がある。
…大丈夫、大丈夫。
自分自身を落ち着けようと、深呼吸を繰り返す。
妙に自分の鼓動を感じながら…深呼吸を繰り返す。
一人で駅のホームに降りた。
背後の『誰か』に神経を尖らせながら、改札口を出る。
定期券を見て…パスケースに入っている写真を見て、あたしは少し歩調を緩めた。
――少し泣き虫だった、眞清。
今は、この頃の面影が全然ない、眞清。
家に戻ってまた写真を見た。
気に入っている、というのは本当。チビの眞清、めっちゃ可愛いし。
…アメリカにいた時もずっと、飾っていた。
絶対に帰る、という自分の決心のカタチで――ずっと飾ってあったから、ちょっと色褪せている。
『――克己が好きですよ』
「……」
眞清の声が、自分の中でよみがえった。
『カツミが好きだよ。…大好きだよ』
――レオンの声もまた、よみがえった。
(レオン…)
『傍にいてくれるって言ったじゃないか…っ』
声と、痛みと…思いと、熱と。頭の中がぐしゃぐしゃになって、瞳を閉じる。
目を開いて、パスケースから出した写真を見下ろした。
何度か瞬いて、浅い呼吸を繰り返して…指先に力を込める。
――ピリ、と写真を破いた。