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④コエ
<cry>

 どう言えばいいだろう。
 ――そう迷っているうちに、一年近く経ってしまった。
 地道に引っ越す準備も始まって…家の中身が減っていく。
 棚とか、大きいものももちろん、服も、気に入ったもの以外は結構売ったり譲ったりして案外、荷物は少ない。
 思い出の写真がいっぱいで、アルバムがいっぱいになった。
 …そういう意味では荷物は少なくないか。

 また、イクに髪を切ってもらっていたら、レオンが遊びに来た。
 着々と進む引っ越し準備と同時に、どんどん広く…がらんとしてくる部屋の中。
 レオンだって気付かないはずがない。
[…随分部屋が広くなったね]
 小さな呟くような声に、心臓がぎゅっとなった気もした。
[引っ越すからな]
 あたしの代わりに、でもないけどイクが答える。
[…引っ越す?]
[ああ]
 繰り返したレオンの様子に、イクがあたしの耳元で「まだ言ってないのか」と小さく言った。あたしは頷く。
「…お前が、自分で言うか?」
「――ああ」
「そうか」とイクがあたしの髪をくしゃくしゃとする。切った髪の毛がバラバラと落ちた。「掃除機持ってくる」とイクが部屋を出ていく。
 背もたれのない椅子に腰かけたまま、レオンがいることは分かっているんだけど――あたしは、振り返れないままでいた。

[カツミ…引っ越すの?]
[…ああ]
[――何処に?]
 レオンの問いかけに…さっさと言わなかった――言えなかった自分を恨めしく思った。
 自分の馬鹿野郎、と息を吐き出す。
[イクは、大学の傍のアパート]
[…カツミは]
 レオンの問いかけにあたしはもう一度息を吐き出し、覚悟を決めた。
[父さんと、母さんと、日本]
[――……]
 返事がなかった。…当然か、とも思った。

 レオンに「好きだ」とか「大好きだ」とか言われる度に――その瞳を見る度に、引っ越すことを言おう言おうと思っていても言えなくなった。…でも、こんなの言い訳だよな。
「なんで」とか「どうして」と言われれば答えようと思った。
 約束があること。――帰ることを、自分で決めていたこと。
 約束を果たして…日本向こうの空気に触れてみて、合う合わないを判断しようと思っていること。
 ――今のあたしは、約束を果たしたらアメリカコッチに戻ろうと思っていた。
 イクがいるから、住むところもどうにかなるだろうし。
 …レオンが大切だから。――不安そうな瞳が、放っておけないから。

[――やだ…]

 聞こえた言葉に、「え」と思った。
[やだ…やだ! ――やだ!!]
「……」
 あたしは唇をかんだ。
 返ってきたのは…問いかけではなく、レオン自身の感情。
 声に、心臓が軋むような錯覚がした。…レオンのそんな声を聞くのは、初めてだった気がした。
 レオンは大抵、笑っていて――不安そうな瞳であたしを覗き込んだとしても、最終的には笑うから、こんな…ある意味、ヒステリックとさえいえそうな声を聞いたのは、多分、初めてのことだった。
 カタンカタンと、レオンの近付く音が聞こえた。
 部屋のモノが少ないから、足音も妙に響く。
[おれより…マスミが大事?]
 さっきより、近い声。――背後に近付いたのがわかる。
 そういうわけではない、と言葉を続けるよりも早く、レオンが口を開いた。
[嫌だよ…おれだけ見ててよ…]
 レオンが背後から、あたしを抱きしめた。
[おれだけに優しくして…他の人に優しくしないで…]
 力が強くて、苦しい。
[カツミ]
 指が腕にいくらか食い込んで、痛い。
[行かないで…――行かせない…]
 抱きしめられて苦しいのと、痛いのと――
[おれだけの、ものに…]
 ――言葉に宿る感情モノが、思いが苦しくて…痛いくらいで。
[――放せっ!]
 思わず、あたしはもがいてレオンを振り払って、立ち上がった。
 立ち上がった拍子にガタン、と椅子が倒れる。

 心臓の鼓動が、やけにうるさかった。
 今も、レオンの指が食い込んだ腕に痛みがあった。
 自分の指先が震えていたのに気付いた。なんの震えか、わからないまま。

 ――振り返れなかった。振り返らずに、言葉を続けようとした。
[なんで…]
 ――泣きそうなレオンの声。
[一緒にいるって…]
 …カシャン、と何か金属めいた音がした。

[傍にいてくれるって言ったじゃないか…っ]

 指先の震えが止まった。…背中に、妙な熱を感じた。
 熱と、重みと――冷たさと、再び熱と。
 熱が、痛みだと…重みが、レオンの力だと気付かないまま。
 あたしは、その場に前のめりになる。倒れこむ。
 膝と腕から床に叩きつけられた。
 叩きつけられた膝と腕よりも、背中の熱が…痛みが、脳みそに届く。

 熱い。苦しい。
 痛い。――熱い。
「――ぇ…」
 うまく声に…言葉にならなかった。――現状が理解できなかった。
 体を支えていた膝と腕に力が入らなくて、倒れこむ。
 背中の焼けるような痛みに、呼吸もちゃんとできない感覚。
 横倒しになった体。背中の痛み。今更ながら、腕と膝の痛み。
 痛い。熱い。苦しい。
 息が、うまくできない――。

 そしてあたしはレオンを見た。

 涙に濡れた青い瞳。
 白い頬も、溢れた涙に濡れる。
 白っぽい長袖Tシャツには、赤い模様が点々としていた。
 振り上げた手に握られたものに、あたしの息が止まった気がした。
 ――ハサミだ。
 イクがあたしの髪を切っていた、ハサミ。
 先端が、赤く濡れている。
 よく見れば、レオンの手と服の袖口も、赤の模様が点々としている。
 …その赤は、模様じゃない。あたしの、――血か。

 なんで、と思った。
 こわい、とも思ったはずだった。でも、どこか冷静に現状を把握する。

 妙にスローモーションに感じながら、レオンを見上げた。
 その手を、見た。――涙に濡れた顔を、見た。

「レオン?」
 イクの声を、遠くで聞いた。
「――克己?!」

 レオンの手のハサミが振り下ろされる前に、イクがレオンを止めたのが見えた。
 イクがレオンを羽交い絞めにして、手からハサミをたたき落とす。
[――いやだ…]
「母さん!!」
 レオンとイクは、それぞれ悲鳴みたいな声をあげていた。
[いやだ、いやだ…いやだ――っ!!]
「克己…っ?!」
 それぞれの声と、背中の熱と…感じながら、あたしの意識は途切れた。

※ ※ ※

「――っ」
 急に息が苦しくなって、あたしは自分の胸元を掴んだ。
 ――大丈夫。
 背中には、壁がある。
 …大丈夫、大丈夫。
 自分自身を落ち着けようと、深呼吸を繰り返す。
 妙に自分の鼓動を感じながら…深呼吸を繰り返す。
 一人で駅のホームに降りた。
 背後の『誰か』に神経を尖らせながら、改札口を出る。
 定期券を見て…パスケースに入っている写真を見て、あたしは少し歩調を緩めた。
 ――少し泣き虫だった、眞清。
 今は、この頃の面影が全然ない、眞清。
 家に戻ってまた写真を見た。
 気に入っている、というのは本当。チビの眞清、めっちゃ可愛いし。
 …アメリカ向こうにいた時もずっと、飾っていた。
 絶対に帰る、という自分の決心のカタチで――ずっと飾ってあったから、ちょっと色褪せている。

『――克己が好きですよ』
「……」
 眞清の声が、自分の中でよみがえった。
『カツミが好きだよ。…大好きだよ』
 ――レオンの声もまた、よみがえった。
(レオン…)
『傍にいてくれるって言ったじゃないか…っ』
 声と、痛みと…思いと、熱と。頭の中がぐしゃぐしゃになって、瞳を閉じる。

 目を開いて、パスケースから出した写真を見下ろした。
 何度か瞬いて、浅い呼吸を繰り返して…指先に力を込める。
 ――ピリ、と写真を破いた。

 
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