「――克己ちゃん」
「?!」
その声に、更科があたしからあたしの左側へと視線を移す。更科の視線が外されたら…呪縛が解けたかのように呼吸ができた。――それまで自分が浅い呼吸をしていたのだと、今更気付く。
更科の視線を追うようにあたしもまた、視線を動かした。
あたしの名前を呼んだ声。――人。
「兄さんが呼んでるんだけど…今、大丈夫?」
あたしは瞬く。――春那ちゃん、と声にならないで呟いた。
誰かっていうのは、声で分かったはずなのに。
「更科君、話してる途中にごめんね。…いいかな?」
春那ちゃんの言葉にちょっとの間を置いて更科が「ああ」と頷いた。
組んだままだった指をほどいて、立ち上がる。カバンを背負った。
…背中が、ひきつるように、疼く。――そんな気がする。
「ごめんね、更科君」
小さいカバンを手に持った春那ちゃんの声にハッとした。
「いや…」
あたしは更科に視線を向ける。軽く手を上げて「じゃ…またな、更科」と言った。
指先がうまく動かせないのは、気のせいなのか。――実際、冷たいのか。
「――またな、大森」
次は、答えてくれ。――そう、聞こえた気もした。
「邪魔しちゃったかな」
「…え…?」
あたしはちょっとばかり春那ちゃんに反応するのが遅れた。
「なんか…更科君が一方的に責めてるような感じに聞こえたから」
あたしの反応が遅かったせいか、春那ちゃんはちょっと言いづらそうに続ける。
「…思わず、中断させちゃったんだけど」
春那ちゃんの言葉にあたしは瞬いた。
自分の中で繰り返して、ちゃんと、春那ちゃんの言葉を理解して一つ、息を吐き出した。
…なんか、ほっとしていた。
「ううん。…ありがとう」
言いながら春那ちゃんの手を軽く握る。…春那ちゃんの手が暖かく感じたのは――あたしの手が、実際に冷たかったんだろうか。
「正直、ちょっと…ビビってた」
春那ちゃんはあたしの手と、顔とを交互に見た。それから、柔らかな笑顔を見せる。
「――克己ちゃんの邪魔になってないなら、よかった」
クスッと笑って「更科君にとっては邪魔になったかもしれないけど」とも続ける。若干ブラックモードな春那ちゃんの様子に笑ってしまいながら、手をつないだまま歩いた。
「そういえば」と思って春那ちゃんに「会長、どうしたって?」と問いかけた。
「ああ…」
春那ちゃんのおかげか、つないだ手が温かくなってきている。
あたしの問いかけに春那ちゃんは「ウソ」と端的に答える。春那ちゃんの答えに「え?」と妙な声を上げてしまった。
「咄嗟に出てきたのが兄さんだったの」
「この前学生会室で」と春那ちゃんは続ける。
「この頃克己ちゃんが支部に来ないね、なんて話してたの思いだして…」
春那ちゃんの言葉を聞きながら――そういえばこのところ折角作ってもらった支部に行ってないな、なんて思った。前は一週間に三、四度は顔出してた気がするのに。
「…折角呼んでもらったから、久々に行ってみようかな」
「そうする?」
春那ちゃんはあたしの手を振りほどこうとはしない。
人の体温って、なんか安心できるんだな…なんてことを思った。
――自分がグラついているから、余計になんだろうか。
「そういえば春那ちゃんは教室に用事あったの?」と訊くと「…忘れ物」と小さいカバンを持ち上げた。――弁当箱、かな?
春那ちゃんの意外なミスにちょっとだけ笑ってしまった。
雑談しながら学生会室へと足を進める。
「コンニチハ」
ノックをして学生会(本部)を覗き込むと、そこには涼さんが一人でいた。
「あら…大森さん」
久しぶり、と涼さんはふわりと笑う。
「野里さんと会長は?」
そう問いかけると涼さんは「野里は補習。冬哉は自主学習」と今まで見ていたらしい本を閉じる。
…表紙には重要単語、と書いてあった。
涼さんも受験に向けて勉強してるんだな。
涼さんと春那ちゃんとあたし…というなんか珍しい顔ぶれになった感じだ。
いつもだと、野里さんとか会長とか…眞清がいるから。
雑談をしていて、「勉強の邪魔になってない?」って聞いたら「休憩も大事」と涼さんは笑った。ピシッとした印象の涼さん。笑うとぐっと、優しい印象になる。
「…涼さん」
「ん?」
「変なこと訊いていい?」
「――? 答えられるかは、内容によるけど…」
椅子の背もたれに背中を押しつけた。一つ息を吐き出して――あたしは、問いかけた。
「誰かから好きになられるのって、怖くない?」
問いかけに、涼さんが瞬いた。
…涼さんは、野里さんに好かれている。きっと、『LOVE』の意味で。
涼さんがそれを知っているのか、あたしは知らないけど…もし、涼さんが野里さんから好かれていることを知っていたのだとしたら――訊きたかった。
涼さんはあたしをじっと見る。
あたしは、涼さんのちょっと鋭さを増した気がする視線を、受け止めた。
涼さんは数度瞬いて…口を開く。
「…敢えて、私?」
「――春那ちゃんも、よかったら教えてほしいけど」
「え…」
言いながら視線を向けると春那ちゃんは、瞬く。口元に手を当てて、しばらく瞳を閉じて…。
「怖い、と思うことはないかなぁ…」
春那ちゃんは瞳を開いて、「多分」と指を組んだ。
春那ちゃんの答えに、あたしは視線を涼さんに向ける。春那ちゃんを見ていた涼さんは腕を組んで、ひとつ息を吐き出した。
「――あたしとよく似た人の意見、として聞いて」
「? …おう」
あたしが頷くと涼さんは口を開いた。
「怖いと思うことはないんじゃないかしら」
机に肘をついて、続ける。
「腹が立ったりムカついたりイラついたり鬱陶しかったり…は、するかもしれないけど」
「………」
――ソレは野里さんに対して、ということなんだろうか…。
言いながら、涼さんの目つきが鋭い気がするのは気のせいだろうか。
「…私も、訊いていい?」
「え?」
何度か呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻したらしい涼さんが言った。
「なんで、そんなこと訊くのか、って」
「――…」
訊いたら、訊き返されるか普通。
あたしは背もたれに背中を押しつけたまま、俯いて指を組んだ。
「――大森さんは、怖いの?」
涼さんの問いかけに顔を上げた。春那ちゃんも、あたしを見ている。
「…ん…」
あたしはちょっと頷くだけで、応じた。
今は遠い、レオンの想い。…あたしに好きだと言った、更科のコエ。
聞いてしまった、眞清の感情。――怖いと思ってしまう、あたし。
どうすればいいのかな。
『好き』という感情。『LOVE』の想い。
それが、あたしはどうしても怖い。
…どうすれば、いいんだろう。
「怖い、と思ってしまう」
『LOVE』の感情。…『好き』だと言う、その当人。
あたしは指を組んで、そのまま額を押し当てた。
「…どうすればいいかなぁ…」
思わずこぼれた呟き。涼さんと春那ちゃんがあたしを見ていたことに気付く。
「変なこと訊いてゴメン」
訊きながら…自分の中の『答え』が出ないまま。
それでも「答えてくれてありがとう」と、二人に続けた。
「おお、大森」
しばらくしてから来た野里さんに「コンニチハ」と応じた。
「久しぶりじゃん。学校には来てたんだろ?」
その言葉に「ああ」と頷くと「折角作ったんだから利用すればいいのに」と野里さんは支部を示しながら笑う。
「蘇我は、ちょくちょく来てるぞ」
「…え」
「珍しいな、別行動」
「……」
野里さんの発言にあたしは声を失った。――意外だった、とでも言うべきなのか。
(眞清…ちょくちょくコッチ来てたんだ)
さっさと帰ってると思っていた。だけど…コッチにも来てたのか。
「今日は来なかったけどね」
涼さんはピシャリと言う。毎度のことながら…野里さんにツンツンしてるのは気のせいだろうか…。
「今日はそろそろ帰ろうか」
「…そうね」
会長の言葉に涼さんは頷く。
「ひとまず退室〜」と会長が言って、みんなで学生会室を後にした。