「――克己ちゃん」
呼びかけにはっとした。視線を隣へ…春那ちゃんへと移す。
「これ、落ちたよ」
「あ…サンキュ」
腕にでも当たって落としたんだろうか。春那ちゃんが拾ってくれたらしいシャーペンを受け取る。
春那ちゃんに更科との会話を打ち切ってもらったおかげか、その後更科に――以前の春那ちゃん曰く――せめられることはなかった。
更科、春那ちゃんと雑談しながら、ぎゅっと、横っ腹部分を掴む。
自然に会話に加わってくれた…『利用すればいい』と、淡々と言い切った春那ちゃん。
二人っきりじゃないように、と一緒にいてくれる。
――この程度で、ビビるなよ。
自分自身に言い聞かせた。…指先が冷たいような気がする。基本、冷え症じゃないはずなんだけど。
誰かに思われる、なんていいことじゃん。
あたしは今、そういう『好き』な人はいない。
多分、好きになってもらうなんて…すごいことで、あたしが出来ないことが出来る更科は、すごいじゃん。
そう、思えばいい。…思えればいい。
そう思って、息を吐き出す。――ダメだ、と。
(――まだ…)
――思えない。
「克己」
呼びかけに若干ビビった。声の方に振り返る。いつの間に帰りのショートホームルームも終わって、後は帰るだけ。カバンを手にした眞清が視界に映る。
「…帰りますか?」
問いかけに、ふっと息を吐き出した。…それは安堵のものだと自分でわかった。
「――あぁ」
眞清が傍に…背中でいてくれることに安心してしまうあたし。――こんなんでいつ、眞清を解放できるんだろう。
『好きだ』と言われなくても…ちょっとした不意打ちにもビビるあたし。…こんなんでいつ『一人』になれるんだろう。
背中になってくれると、眞清は言った。
その言葉に甘えて、ずっと一緒にいて。
…ほんの少しの間離れて――また、眞清の言葉に甘えて、背中になってもらっている。
今度は、期限付きで。
(眞清に彼女が出来るまで…)
眞清に、『好きな人』が出来るまで、背中になってくれと言った。
――聞くつもりはなかった。
眞清が、あたしを好きだということを。
あたしの名前と…更科と眞清が言い争うような声に、思わず聞き耳を立ててしまったら…聞こえてしまった。
『克己が好きですよ』
それを聞いたら眞清もこわくなってしまって…少しの間、離れた。
離れた、っつっても、登校は一緒にしてたし、状況的にはあんま変わらなかったかもしれないけど。とりあえず、今よりは…離れる前よりは、一緒にいないようになった。
離れてから、感じてしまった。
眞清の傍の心地よさ。安心感。
眞清があたしを好きだと聞いてしまったけれど――眞清はその感情を、更科のように表さない。幼馴染みとして、一緒にいてくれる。
(…どんなに長くても高校卒業まで…だよな)
話したことはないし、しっかりと考えたこともない。
だけど…多分、あたしと眞清は違う大学や進路を選ぶと思う。眞清は頭がいいし。
(眞清に彼女が出来るまで…)
あたし以外の好きな人ができるまで。
――あたしはズルイ、っていう自覚はあるけど。
――利用しているとバレた時に、眞清に嫌われる覚悟をしとかなきゃいけないけど。
今はまだ…もう少し、眞清の傍で。
「…ボーッとしてますね」
「え? …あぁ…そう、か?」
電車を待っていると、眞清に言われた。
「そう言えば選挙、眞清は誰に入れた?」
更科じゃないが、終わったことならきっとネタにしてもいいだろう。あたしの問いかけに「内側の二人です」という答えがくる。
「適当か」
「克己と似たようなものです」
あたしが書いたは両端の二人だった。…確かに似たようなものか。選んだ人…ってか選び方は違ったけど。
「今はもう開票してんのかな」
「そうじゃないですか」
今日も学生会室をこっそり覗いてみたんだけど…会議っぽい雰囲気だったらか、そのまま帰ることにした。
会長達…冬哉さん達の最後の仕事、みたいな感じになるのかな。あっても、引き継ぎ程度ってことかもしれない。
「来年、克己は立候補しますか」
「え? うーん…」
「あの部屋を使うという意味では、ある意味近道かもしれませんよ」
眞清の言葉に「あ」と声を上げてしまった。…確かに、その通りかもしれない。
だけど、と思う。
「他の立候補者がいなきゃいいけどさ、いたら選ばれるかはわかんないじゃん」
「それはまぁ、そうなんですが」
あたしは一つ息を吐き出した。いくらか白っぽい蒸気が見える。冷えてきたかな…。
「そういう眞清はどうなんだよ」
あたしの切り返しに「僕はやる気ナシですね」とスパッと言われる。あまりの即答っぷりに思わず「…即答か…」と漏れてしまうくらい、素早かった。
「克己が出るなら、付き合いますよ」
「……」
カンカンカン、と警報器の音が聞こえる。眞清の言葉を自分の中で繰り返して、思わず笑った。
「お前、付き合い良過ぎ」
ガタンガタン都電車が大きな音を立てて目の前を通過する。いつも通り、一番後ろの車両に乗ろうと待ってるから、電車はすぐには停まらず、早々には乗りこめない。
「…克己でなければ、付き合いませんよ」
キィッと甲高い音に目を細めた。電車が完全に停まる。
「…? なんか、言ったか?」
眞清が何かを言った気がした。問いかけると、眞清はほんの少し、目を細める。
「特には」という眞清の声を聞きながら、あたしは電車に乗り込んだ。
※ ※ ※
今度の学生会長は、女の子だった。
他の立候補者がいなくて、学生会長は選挙がないまま決まる。
二人の副会長を決めるための選挙の開票結果は、選挙の翌日…今日、発表される。
全校生徒が体育館に集まって、選挙管理委員の委員長が結果を発表した。
『開票の結果、梶原聡くんと百瀬鞠子さんが当選となりました』
発表されるとどこからともなく拍手が上がった。体育館全体の拍手が鳴りやむと、壇上に学生会長…もう、元学生会長になるのかな。冬哉さんが立つ。
冬哉さんはマイク越しで今年度学生会メンバーの解散を表明した。
『これから色々忙しいかもしれませんが、頑張ってください』
最後に、新たな学生会メンバーにそんな言葉を贈る。
再び誰からともなく拍手が起こった。
冬哉さんは壇上で一礼をして、冬哉さんの挨拶が終わる。
(…これで冬哉さん達の学生会は解散、か)
もう、十二月だ。
眞清じゃないが…受験のこととか考えると、随分長く、期間としては遅くまでやっていることになるのかもしれない。
『続いて、新たな学生会長…鷲沢美弥子さん、一言お願いします』
選挙管理委員の委員長の言葉に、一人の女の子が立ち上がった。
昨日も見たけど…少しクセのありそうな髪を高い位置でひとまとめにしてある、ちょっと気が強そうな女の子だ。
…女の子、っつっても先輩だけど。
壇上に立った女の子はすらっとしていた。印象が…ちょっと涼さんに似ている。
涼さんの髪はストレートで、壇上の女の子…新しい学生会長に比べれば短いけど。
『よりよい学校生活を送れるよう、先輩方と同じく…あるいはそれ以上に張りきっていきたいと思います』
ハキハキした物言いでそんなような一言を言って頭を下げる。
人前に立つのが慣れているのか、すごく堂々としていた。
(冬哉さんとは違う雰囲気の会長さんだな)
――なんか変わるだろうか。ひっそりそんなことを思いながら、眺める。
(とりあえず…)
眞清に言われてからようやく気付いたけど、学生会の隣の秘密基地は使えなくなるんだろうな、と思った。
(あ…そのままにしといていいのかな)
素朴な疑問が思い浮かんだ。
冬哉さん、涼さん、野里さん…あと、春那ちゃんも、かな。協力して、作ってくれた空間。
…巻き込んだ、って意味じゃあ、眞清も…か。
眞清からすれば、特に『必要』とは思っていなかった気がする。
けれど結局付き合って、一緒にいてくれてる。…あの空間作りにも、協力してくれた。
「……」
少し考えた。でも、と。
野里さんに「別行動なんて珍しいな」なんて言われた時。少しの間…眞清と距離を置いた時、眞清は一人でも、秘密基地に寄っていた、と聞いた。
(なんだかんだで眞清も教室以外の居場所ってか…秘密基地、欲しいって思ってんのかな)
あたしに付き合って、ばかりではなくて。…そうだとしたら。
(また、欲しいな)
秘密基地、みたいな空間。教室以外の居場所。
(ひとまず…冬哉さんに相談、だな)
別に私物が持ち込んであるわけじゃないけど、わざわざ作ってもらった空間がそのままでいいのか。
先週冬哉さんから「どうする」って訊かれたけど…結局、その時以降答えは出さないまま今になっている。
学生会室の隣…作ってもらった秘密基地はどうすればいいのか。
訊かなきゃいけないなぁ、と思った。
(放課後、冬哉さんに時間があればいいけど…)
引き継ぎかなんかで掴まんなかったらどうしよう、とかふと思う。
(…まぁ、どうにかなるだろ)
眞清当たりに聞かれたら「アバウトですね」と突っ込まれそうなことを思いつつ、ひとまず、当選発表が終わった体育館を後にした。
「あ」
当選発表が終われば、今日は終わりだ。ついでに週末。明日は休み。
ショートホームルームが終わってから、冬哉さんと話がしたいと思って、学生会室に(いつものように眞清を引っ張りつつ)向かうと、目的の人の後ろ姿が見えた。
「冬哉さんっ!」
呼びかけに想像通りの人が振り返る。ついでに、一緒にいた二人も。
冬哉さん、涼さん、野里さん…今日解散した学生会三人組だ。
「お疲れ」
あたしがそう言うと冬哉さんは数度瞬いた。しばらくすると「ありがとう」と少し笑みを浮かべて応じる。…こういう顔を見ると、冬哉さんはやっぱ穏やかな人なんだろうなーとも思うんだけど。
あたしは涼さんと野里さんにも「お疲れ」と言った。
涼さんは冬哉さんと同じように「ありがとう」と、野里さんは「おぉ」を応じる。
『やりきった』みたいな、充実感でもあるんだろうか。三人とも、笑顔だった。
「ちょっと訊きたいことあるんだけどさ、今いい?」
冬哉さんに視線を戻して問いかけると「うん?」と冬哉さんがあたしを見る。
見下ろすってほどでもないけど、冬哉さんはあたしより五センチ程度背が低い。
学生会室に入る手前の廊下。人は、冬哉さん達とあたしと眞清の五人だけだ。
「学生会室の隣…秘密基地なんだけどさ」
そう言うと、冬哉さんの笑顔が深まった、気がした。
(…え)
なんの笑顔…? そうは思ったけど、続ける。
「私物とか持ち込んだわけじゃないけど、ちょっと模様替えしたじゃん?」
元々部屋にあった資料の並んだ棚を動かして、空間を作ったから模様替えってか…配置換えになるのか? しかしその後机と椅子を入れたから…模様替えでいいんだろうか。
まぁ、言葉はどうでもいい。
「配置、戻さなくていいの? そのままで大丈夫かな?」
あたしの問いかけに冬哉さんは数度瞬いた。