前日から、なんとなく空気の落ち着かない感じが強まっているように思えた。
男子も、女子も。
バレンタイン当日。
『お願い、協力して!!』
――あたしは、絵美ちゃんと弥生ちゃんに頼まれごとがあった。
朝…あたしは学校の靴箱に入っていた物に気付いて一瞬固まった。
浅く、息を吐く。「おぉ」と声を上げた。
「? どうか、しましたか?」
「チョコ? かな?」
箱を眞清に見せる。
濃い青…藍色の地に、金色っぽいストライプの包装紙に包まれた、そんなに大きくない箱だ。
「…おめでとうございます」
眞清の切り返しに「めでたいのか?」と笑う。
…ツキリ、と背中が痛む。
これは、好意。――でも日本では、女から男に好意を贈る日だったんじゃなかったか。
「女の子からかな〜」
友チョコ? ってヤツだろうか。…だったら、直接渡してくれればいいのに、と思う。
…多分、益美ちゃんからではない。
眞清は『自分の領域を勝手に荒らされるのは嫌だ』と言っていた。
…それとは違う意味で…『嫌』ではなかった、けれど――怖いと思ってしまった自分がいた。
これは、どんな『好意』だろうか。
…メッセージカードとか入ってればいいんだが。
『誰か』からかわかれば、この怖さも薄れる気がした。
一瞬指先が震えてしまった気がして、ぎゅっとその箱を握ることで押えこむ。
「眞清は」と、しゃがんで靴箱を開けている眞清に視線を落とした。
「…ありますね」
「ははっ。おめでとう」
眞清の真似をして祝福をする。
チョコを持っていないほうの手で、横腹に爪を立てた。
ツキリ、とまた背中が痛んだ気がして息を吐く。横腹に強く爪を立てて…その刺激に集中する。
上履きに履き替えて「いくつ?」と訊ねた。
「…二つです」
ふざけて、「あ、負けた」と言った。眞清が箱と紙袋を持って立ち上がる。「…勝ち負けがあるんですか」と少々目を細めた。
「いいじゃん、カワイイ女の子からの好意」
「可愛いとは限りません」
その切り返しに「おーいー」と声を上げてしまう。
…っつーか、眞清って女子の見た目とか気にしてるのか? ちょっと意外に思った。
「…この前も言いましたが、勝手に開けられるのは不愉快です」
どちらからともなく歩きだすと、眞清が口を開く。
「ガード堅いなー」
靴箱くらいいいじゃん、と言っても「なんとでも。僕が不愉快なのは変わりません」とため息交じりに応じた。今回も紙袋を抓むようにして持っている。
「今回、どーすんのソレ」
「…去年は回せる人がいたんですけどね…」
それは潤のことだろうか、と思う。…そう思って…。
「あー、今更だけどさ、貰った物そのまま横流しってどーなんだ、眞清」
教室に入りながら言う。後ろのドアから入って、一番近いのは眞清の席だ。
眞清は箱と紙袋を机に置いた。「…今更?」と聞き返されて「去年」と呟く。
「確か開けないで潤に回してただろ?」
あたしも靴箱に入っていた箱を机に置いた。カバンも机の上に置く。
…傍に眞清がいるから、易々と背中を晒すことができた。
「…甘いモノが好きな人にあげたほうが有益でしょう」
元気いっぱいに「ありがとう!」と受け取っていたことを思いだす。
確かに潤は喜んでいた。
「モノは言い様だな」
宿題に使った英語のノートと国語の教科書とノートをカバンから出す。
今日の授業は、と後ろの黒板…に今日の時間割が書いてあるの…を確認して、昨日既に入れておいた教科書とかを引っ張り出した。
「……」
机の中に、もう一つ箱が。こっちは緑とオレンジのチェックって感じの包装紙だ。
固まってしまったあたしに眞清が「二つ目ですか」と声をかけてくる。
眞清はすでに腰を下ろしていた。
座っていたから、もしかしたらあたしの机の中が見えたのかもしれない。
あたしは箱を引っ張り出した。
机の中の箱のほうが靴箱に入っていた箱より大きいけど、厚みは薄い。
「だな。眞清も入ってたんじゃねぇの?」
振り返ると、眞清の机の上には箱が二つと紙袋が一つ載っていた。
パッと見黒にも見える深い茶色の箱と、抹茶色みたいな渋い緑の箱と、ひとつだけ明るいピンク色の紙袋と。
「えぇ、まぁ」と…なんか、こういう時って喜ぶ反応じゃないのか、と思いつつ…いっそ機嫌が悪い方向な顔の眞清になっていた。
大抵笑っている印象の顔なのに、今はその笑みというかがない。無表情に近くなっている。
「見ず知らずの人から貰っても有り難迷惑というやつですね」
「…言い切るなぁ…」
その言い切りっぷりに、苦笑した。
「…あ」
あたしは思わず声をあげる。
ひとまず箱を机の上に並べて、壁に背を預けた状態にして眞清の机に肘をついた。
「直接手渡される分には、いいんだよな?」
「? …まぁ…」
眞清が不思議そうな顔になってことに気付いたけど、あたしはそれ以上言わなかった。一人で「ん」と納得する。
――今日、あたしは絵美ちゃんと…というか弥生ちゃんの協力をする。
眞清はこっそり…勝手に、というべきか…自分の領域を開けられるのが嫌だということだから、眞清をどっかに呼び出す作戦だ。
『直接?! 無理無理無理ー!!』
弥生ちゃんが半分叫んでたけど、眞清の場合、そっと置いてあってもあまりいい感情をもたないみたいだ、と言ったら弥生ちゃんはしばらく考えて、絵美ちゃんにも後押しされて「頑張る」と拳を作っていた。
頑張る女の子はカワイイ。
協力すると言ったし、眞清と弥生ちゃんがうまく二人になれるようにしよう。
(渡す瞬間だけでもいい、って言ってたもんな)
正直、手渡すだけで相当勇気が要る、とも言っていた。
「はよ」
ちょっとばかり思考に浸っていて、その声にはっとした。更科だ。
あたしは眞清の机に肘をついたまま、手にアゴを載せていた。
「あ…おはよう」
「なんだ大森、早速チョコ貰ったのか?」
更科の問いかけに「おう」と頷く。「多分」とも付け足す。開けてないからまだわからない。
…眞清の机の上にもあるんだが、更科と眞清は話さない。
ツキッと、背中がひきつるような感覚がした。
膝のほうに投げ出していた手を、そのままぎゅっと握る。掴めるのは、ズボンくらいだったが。
「更科は?」
聞き返すと「ねぇよ」と苦笑を見せる。
「大森に負けるとは…なんつーか、男としてどうなんだ、ってハナシだな」
「ははっ」
あたしは笑った。…眞清の机にもチョコはあるぞ、とか思う。
思うけど…何も言わない。――言えない。
「今日のオヤツだな」
チョコだったら、と仮定して軽く箱を示す。更科は席に着いた。
なんとなく教室の人が増えてきている。
眞清は今朝も読書を始めていた。
机の上に箱と紙袋と栞とを並べるようにして置いてある。
ぼんやりと、そんな眞清の机の上を眺めていた。
…すると、ひらっと何かが視界の隅で動く。
思わず目で追った。…視界の隅で動いたのは更科の手だった。
招くように更科の指先が動く。更科は軽く耳たぶを指で示した。
耳を貸せ、という意味かと思って「なんだ」と眞清の机から肘を外して、前に向きなおった。
少しばかり身を乗り出すようにして、更科は言葉を続ける。
「…っつーか…相手、誰?」
「……」
あたしは瞬いた。
「まだ、見てない」
開けてないって、見ればわかるだろ? と靴箱と机に入ってた箱を示した。
更科は「女子?」とまだ聞いてきて「だぁ〜かぁ〜らぁ〜…」と今度は、「開けてない」と言葉にして告げようとした。
…その、前に――更科の視線に気付いてしまう。
真っ直ぐに、あたしを見る。
目。…視線。そこに宿る気がするモノ。
――それが見覚えのある目に思えた。
また、背中がツキッとひきつるような痛む気がする。
…さっきよりも明確に…『痛む』ような、感覚がする。
ぎゅっと、横腹に爪を立てた。
はっと、息を吐き出す。
…更科の目。あたしを見る、視線。
――レオンと似ているように感じてしまう、視線。
「――見れば、わかる…だろ?」
声にして、言葉にして、応じる。
…更科の目に、気付かないふりをする。
――レオンと似ているように感じてしまった自分自身の思考を、無視する。…しようと、する。
「開けてないから、わかんねぇよ」
未だに横腹に爪を立てたままの右手をどうにか引きはがして、箱を示しながら言った。
「後で、見るよ」
今はまだ、見ない。その宣言に「そーかよ」と更科はあたしの机に肘をついた。
あたしは腕を組んで椅子に背を預ける。
組んだ両腕…両方の手で、ぎゅっと服を握った。
「おはよう」
その声に、ぱっと視線を向ける。
「…はよ」
更科もまた、視線を向ける。
あたしはほっと息を吐き出した。…そんな自覚をして、いつの間に息が浅いモノになってしまっていたと気付く。
「おはよ、春那ちゃん」
そう言うと春那ちゃんはもう一度「おはよう」と言った。
春那ちゃんはカバンを机の横のフックに引っ掛けて、紙袋もフックに引っ掛ける。
「克己ちゃん…早速チョコ貰ったの?」
「おう。…って、まだ開けてないから…もしかしたらチョコじゃないかもしれないけど」
「その場合何かしらね」
春那ちゃんは自然と、あたしと更科との会話に加わってくれた。
「内川さんは誰かにあげるの?」
更科が言った。その問いかけに、春那ちゃんは瞬く。
ふっと、細く息をついたのがわかった。
「…義理ばっかりね」
「ギリ?」
思わず聞き返すと春那ちゃんはあたしを見る。「えぇと」とちょっと考えるように首を傾げた。小動物を連想させる、可愛い動き。
「お菓子メーカーの陰謀に乗ってあげるの」
…その可愛らしさからはちょっと想定外の言葉を続けた。
「三倍返しを期待して、ね」
「へ?」
三倍返し? とまた聞き返してしまう。「そうよ」と春那ちゃんは頷いた。
「こういうのは見返りを求めるの。ボランティアじゃないから」
「……そっか…」
また、想定外の言葉が続く。…春那ちゃんはやっぱり、面白い。外見から想像できない発言をしたりするから。
「…なんてね」
春那ちゃんは口元に笑みを刻んだ。…可愛い。
紙袋から小さな、水玉模様のセロファン? みたいな袋をあたしに差し出してくれる…って…。
「バレンタインおめでとう」
「……」
中身はクッキーに見えた。色からしてココアクッキー…だろうか。
「三倍返し?」
聞き返すと「期待してるわ」と春那ちゃんが再び笑う。
「…ありがとう」
春那ちゃんから、そのクッキーを受け取った。
「オヤツにもらうな」と言うと「味は保証しないわよ」と春那ちゃんは続ける。
「りょーかい」
そう言いながら…作れるだけでスゴイと思う。
料理もそうだけど、お菓子作りって大変そうだと思うから。
「結構簡単よ? オーブンがあれば」
「そういうモノなのか…?」
そもそも家にオーブンがあっただろうか、なんて思う。
電子レンジはあるけど…オーブン機能はついてなかった気がした。
「内川さん、ついでに頂戴」
更科が手を出した。春那ちゃんはパチクリとする。
「…ごめんなさい、女友達の分しか用意してないの」
「残念」と言いつつ、更科は差し出した手をあたしに向けた。
「くれ」
「ヤダよ」
なんだそのノリ、とあたしは笑う。…今回は、本当に笑えたと思った。
「おっはよー!」
益美ちゃんの声に振り返る。よく通る声だ。
「で、バレンタインおめでとー」
益美ちゃんは言いながら、紙袋をガサガサとする。
「ハイ」
宣言どおり、益美ちゃんから『友チョコ』を貰った。
「はるちゃんも」
言いながら、益美ちゃんは春那ちゃんにもチョコを手渡す。
春那ちゃんがくれた、クッキーが入っていたセロファンと似た感じの包装で中身が見えた。十円チョコをいくつか、色んな味のヤツだ。
春那ちゃんも益美ちゃんに、あたしが貰ったようなクッキーを手渡す。
「わ、手作り!? ありがとう〜っ!!」
春那ちゃんからのクッキーを受け取って、益美ちゃんは嬉しそうに笑った。
「はい、蘇我君もドーゾ」
なんとなく、益美ちゃんの様子を眺める。
眞清と更科も益美ちゃんから友チョコを貰っていた。
なんか紙袋に入ってるヤツをそのまま差し出して「選んで」と二人に選ばせていた。
眞清はあんまりチョコ…ってか甘いモノが得意じゃないらしくて一つ、更科は二つ。
「ありがとうございます」と言った眞清と「ありがとな」と言った更科に、それぞれ「どういたしまして」と応じる。
「…で、蘇我君、ソレ誰から?」
目をキラキラさせて、話題を眞清の机の上に置いたままの箱へと移した。
「開けてないので、なんとも」
「だよねー。…克己も?」
あたしにも振られる。「開けてないから、わからない」と眞清の真似っぽくなってしまったが、応じた。
「明日教えてね」
ニヤニヤしながら益美ちゃんが言う。それはあたしと眞清と、両方に言われたように感じた。