「たなおろし?」
克己は不思議そうに聞き返していた。
克己が雑談をしているのは、前の席の更科だ。
「おう。それで単発のバイトがいるみたいでさ」
まだ人手が足りないらしいから、よかったらやってみないか? と更科は克己に誘った。
「時間がちょっと遅いんだけどさ」
眞清はそんな様を聞くともなく聞いている。視線は手元の本に落としていた。
「…ちょっと考えさせてもらってもいいか?」
「ああ。でも、あんま待てないかもしれない」
色々と声掛けてるから、と更科は続ける。
「わかった」と克己が頷くと更科は「ヨロシク」と笑顔を浮かべた。
じゃあな、と教室を出ていく。
更科は確かバスケ部…らしい。部活があるのか、バイトがあるのか。眞清はそこまで知らないが。
「蘇我くん、バイバイ」
名指しが聞こえて眞清はふと顔を上げた。
「…あぁ、はい。さよなら」
クラスメイトである弥生が、朝と同じように友人である近藤理恵子と、よく一緒につるんでいる村城絵美と共に教室を出ていった。
眞清は再び本に視線を落とす。
――弥生は自分に告白してきた相手。『付き合って』と言ってきた相手。…眞清が『付き合えない』と応じた、相手。
それでも向こうからされれば…挨拶くらい、する。
自分から避けるような真似はしない。
くくりとしては未成年で『子供』だ。けれど幼稚園や小学校低学年並みの『ガキ』ではない。
クラスメイトなのだ、自分から和を乱すような真似をしようとは思わない。
それでも――少し、面倒だ。
そう思う自分がいる。
基本的に、友好関係を積極的に広げようと思う性質ではないのだ。
浮かず、つかず、離れすぎず…。
ある程度の付き合いはする。団体行動から外れない。
けれど、自分から踏み込むことはしない。――それが、眞清的な他者との距離間だった。
実際ちゃんとした『友人』の名を連ねようとしても、そんなに並べることはできないだろう。
今のところそれで支障はないし、ついでに友人がいないわけでもない。
「ぐいぐい押すねぇ」
ポソリとした声が眞清の耳に届いた。
けれど、それが自分に向けられたものだという認識はなく、視線は今も本に向けたままだ。
クラスメイトで眞清と同じ名前…榎本益美の声だ。
ハキハキした彼女は好奇心旺盛な性格どおり、報道部員だったりする。
報道部は教員や保護者が見ても問題ない『オモテ新聞』と学生のみが楽しめる『ウラ新聞』を発行していたりして…その報道部に所属する益美も、なかなかの情報通だ。
「ところでさ、『たなおろし』ってなんだ?」
克己が誰ともなく問いかける声が聞こえた。
「へ?」
克己の呟きに妙な声を上げたのは益美だ。そこで眞清は顔を上げる。
「商品の数を数えることですよ」
眞清がそう答えると待つ身は「…ふぅん?」と分かったようなわからないような声を上げる。
「って、更科君なんのバイトしてんの?」
ふと思ったように益美が呟いた。
「…なんだっけな。聞いたような気もするけど…」
克己は考えるように目を閉じた。記憶にノックするように、軽くこめかみを叩く。
「…棚卸に単発のバイトを探す程度なら、そこそこ大きいスーパーとかホームセンターとかじゃない?」
小さな声でそう言ったのは、克己の隣の席の春那だ。
小動物を連想させるどちらかといえば『可愛い』とも言えそうな外見だが、その発言は時折毒っぽさも混じる『イイ』性格をしていた。
そこそこ付き合いやすいと眞清は思っている。
先日卒業したが…春那の兄は前学生会長で、彼もまた『イイ』性格をしていた。二人は兄妹だな…と思える程度に、その発言には毒っぽさがチラホラ混じる。
春那の予測に克己が小さく「ふぅん」と呟いた。
「バイトか…。したことないし、やってみればいい経験にはなるかもな」
言いながら、克己は壁に背を預けたまま腕を組んだ。
眞清は再び本に視線を戻す。本の中では、そろそろ第二の殺人が起こりそうな雰囲気があった。
眞清が本を読み進める間に、克己達もまた会話を重ねる。
「そういえばあたしもバイトしたことないなぁ」
自由に使えるお金が増えるのはいいよね、と益美は頷いた。
「はるちゃんは?」
「私も…ないわね」
益美の問いかけに春那が応じる。
「蘇我君は?」
眞清は自分を呼ぶ益美の声音に顔を上げた。
「…え?」
「蘇我君は、バイトしたことある?」
益美の問いかけに「ああ」と小さく呟き、「ありませんね」と応じた。
「人見知りが激しいので」
「…よく言うな」
ポツリとした克己の声がとどいた。眞清は視線を克己へと向ける。
「何か?」
「自分で言うな、人見知りが激しいとか」
克己の言葉に「心外です」と眞清は応じた。
「ちゃんと自己分析できてるじゃないですか。とても人懐っこいとは言えませんよ、僕は」
「…そこまでどきっぱり言い切るのもどうかと思うんだが…」
克己の言葉に眞清は笑う。…いつもの――克己に言わせれば『何を考えてるかわからない笑み』。他人に踏み込ませないための、笑み。
「まぁ、社会に出れば『人見知りが激しくて』なんて言ってられないでしょうけどね」
あえて人付き合いを広げようとも思ってません、と呟く。
クスッと誰かが笑った。
笑ったのは、益美らしかった。
「? どした、益美ちゃん」
克己の問いかけに「んーん」と益美が首を横に振った。
「なんでもない」
…目をキラキラさせながら「なんでもない」と言われても、正直説得力はない。むしろ「なんかある」と示されているようにすら感じる。
けれど、眞清はそこであえてツッコミをかますような性格ではなかった。
相手による部分もあったかもしれないが。
それか、ケンカを売られているように感じれば、買わないこともない。
「そぉか?」
克己もまた、首を傾げつつも深くは追究しない。
「いや、なんか…面白いなぁ…って」
シミジミ言われても、どこがどう面白いのか眞清にはわからなかった。
益美の発言に至るまでの流れから考えれば克己と眞清の会話…あるいは、眞清の言葉が『面白い』らしいが。
(…というか、『なんでもない』んじゃなかったんでしょうか)
思考の隅でそんなことは思った。あえて口にしたりはしないが。
「やっぱ二人って、仲イイよね」
続いた益美の言葉に克己は瞬く。眞清は意識せず、微かに目を細めた。
※ ※ ※
「バイト、やってみるんですか」
電車に乗ってしばらくすると、眞清がそう口を開いた。
よく聞こえなかったのか、克己は「あ?」と聞き返してきた。
眞清はもう一度、同じ言葉を繰り返す。
「バイト、やってみるんですか」
眞清の言葉に克己は「ああ」と吐息のような声を上げた。
「興味がないって言ったらウソになるな」
電車の壁に背を預けたまま、応じる。
更科曰く…棚卸のバイトは店の閉店後に行われるらしい。
いつもより早めに閉店した後、棚卸作業が始まるためバイトの開始が『夕方6時から』と夕方始まりらしかった。
終わるのは早くても8時頃、数があまりにも合わなければ12時近くになる可能性があるらしい。
学生バイトは、9時に引き上げていいらしいが。
克己は「でも」と言って、少しばかり笑った。…それは、苦笑のような笑み。
「…迷う、な。どうしても。カバン背負ったまま作業するってワケにもいかないだろうし」
克己は言いながら窓の外に視線を向けた。
一時期に比べ、大分日が伸びたように感じられる。
もう少し前であれば、もっと夕方めいた色合いの空になっていたと思ったが…今は、そこそこ明るい。とりあえず、自転車のライトをつけようとは思わない。
外の様子を眺めているのか…それとも見るともなく目に映しているだけなのか、ひとまず克己は視線を外に向けたまま、続ける。
「――どうしたって一人でやらなきゃいけないだろうし…」
「……」
眞清はしばらく克己を見て、克己の視線を追うように窓の外を眺めた。そこには見慣れた景色が流れていく。
克己の言う『一人でやらなきゃいけない』というのは、集団行動…克己が『誰か』と一緒でなければ行動できない、という意味合いではない。克己は背中が何か壁のようなモノ…動いている間ならカバンがあれば、おそらく一人で行動することも苦ではないだろう。
「そう、ですね」
仮に克己が眞清を巻き込み、眞清と共に棚卸のバイトに参加したところで四六時中一緒にいるわけには…眞清が克己の『背中』でいるわけには、いかないだろう。
その程度の予測はできた。
それに…おそらく更科だって克己をバイトに誘ったのに、眞清が一緒に行けばいい顔をしないだろう。
――まぁ眞清は、克己が望めば一緒にバイトをしてみるのも経験だ、とは思う。
自ら率先して「バイトをやりましょう」とは言わないけれど、克己から声をかけられれば「付き合います」とは言うだろう。
自分から『克己の背中になる』と言いだしたのだ。
克己から『不必要』と言われない限りは、その言葉を全うしようと思っていた。
それに、克己の傍らが眞清のモノだ、と…どこか、思っている。
――そう思っていると自覚したのは、いつだっただろうか。
電車が止まる。プシュウッと言う音と共にドアが開き、数人の乗客が降りた。
しばらく停車した後、アナウンスと共にドアが閉まる。
再び電車が動き出してしばらくすると、克己は細く息を吐きだした。
その吐息に気付いて眞清は克己に視線を向ける。克己の視線は今も窓の外に向けられていた。けれど、眞清の視線に気付いたかのように、眞清へと振り返る。
「なぁ」(更科と仲悪いのか?)
克己はそう口を開いて、止まった。しばらくの間に「はい?」と、続きを促す。
次に止まる駅が、眞清と克己の最寄り駅…和山だ。
「――…」
克己の口が半分開いた。何か言おうとしているらしい。
…けれど、半分開いた口は閉ざされた。
金魚か鯉のようにぱくぱくと動き、最終的にはもう一つ、息を吐き出される。
なんなのか、と思った。
克己は基本的に思ったことはパッと口に出るタイプ。
言い淀み、惑うことが珍しいと思った。
「――また、海にでも行かないか」
――続いた言葉はきっと、最初に言おうとしたこととは違うことだろうな、と思った。
眞清は目を細める。
…本当は、何を言おうとしたのか? 何に言葉を詰まらせ、何を迷ったのか――。
そう思う。…けれど。
「…構いませんよ」
眞清はそこでは突っ込まず、応じた。さらに言葉を続ける。
「あれから一年くらい経ちますね」
そう言った眞清を克己が見た。…自分で言っておいてなんだが、意識せず漏れた呟きだった。
『あれ』は明確に『何』だとは示さなかった。
けれど、克己はすぐに思い当たったようだ。
「…そうだな」
応じて、目を細める。今も背の高さにあまり変化はなくて――眞清と克己と目の高さは、同じ程度で…克己の表情の変化は、見やすい。
思いだすような、懐かしむような…顔。
眞清が克己の『背中』のことを知ってから。――眞清が克己の背中になると告げてから。
そろそろ、一年。
春休みに入れば、確実に一年となる。
自転車で行くこともできる海。
距離としては、何度でも行こうと思えば行ける。…だが、なかなか行かなかった。
眞清が基本的に出歩く性質ではないことはきっと、核としてあるだろう。
けれど、そればかりではなく――克己の『背中』のことを知った場所だったから。…眞清が克己の背中になると告げた…決意の場所となったから。
なんだか眞清の中で…『特別』な場所になっているのかもしれない。