着替えるとは言っても上着を羽織るだけだったが、眞清と更科は並んでロッカールームに向かう。会話はない。ただ向かう先が一緒というだけだ。
男性と女性でロッカールームは分けられていて、単発バイトではない更科は一応ロッカーがあるらしく、今までつけていたエプロンをそのロッカーに放り込んで上着を羽織る。
眞清はサイフ等の貴重品は作業中にも身につけていて、上着とカバンをロッカールームに置いてあった。既に外してあった軍手をカバンに入れて、上着を羽織る。
克己はきっと裏口にいる…か、眞清が裏口で待っていれば、来るだろう。
紛らわしくしないため、店舗の出入り口は既に閉まっていた。
煌々と電気が点いているから人がいることは一目でわかるだろうが、でかでかと『棚卸につき本日閉店』と通知の紙が貼ってある。
「お疲れさまでした」と、眞清は誰ともなく口にして、ロッカールームを出た。誰に言ったわけでもないので、返事も期待しない。ついでに『誰ともなく口にした』ため、声はかなり控えめだ。違うことに集中していれば多分聞こえない。
「お先に失礼します」
誰かと遭遇するとそうやって軽く挨拶をして、眞清は裏口から店舗を出た。
3月最終日。夜の風は、まだ少し冷たい。我慢できないほどではないけれど。
(まぁ、一時期に比べれば、大分温かくなりましたね)
そんなことを思いながら空を見上げた。
裏口周辺は荷物を運びいれたりする都合のためか、結構明るい電灯が備え付けられている。周りが明るいせいで、月が浮かんでいることはわかるが、星のあるなしはよく判断できなかった。
裏口から誰か出てくる気配と聞き覚えのある声に眞清は視線を向けた。
聞き覚えのある声は克己のモノ。…そして、更科のモノ。
「あ、わりぃ。待たせたか?」
更科と話していた克己だったが、眞清に気付くと軽く手を上げながらそう言った。
「…いいえ?」
眞清は更科を一瞥して、告げる。
「大森はどうやって帰るんだ?」
更科は克己の視線を自分に引き戻させるように、そう声をかけた。
「どうやって…? 歩いて駅まで行って、電車に乗って」
少しばかり首を傾げつつ、克己は応じる。
克己の答えに更科は「詳しいな」と少し声を上げて笑った。
更科のバイト先であるホームセンターは、眞清達が通う豊里高校から徒歩だと大体30分くらいの場所にある。
ホームセンターの最寄り駅は豊里高校の最寄り駅…豊里駅の隣の拍谷駅となり、定期券が使える範囲だったりした。
最寄り駅とはいっても、徒歩だとやはり30分近くかかってしまう場所なのだが…なんにせよ、克己はもちろん、眞清も電車を利用して帰るつもりだった。
更科は自転車で学校に通っていることもあり、バイト先にも自転車を利用して来ていたらしく、社員用駐車場の片隅にある駐輪場に自転車を取りに行った。
克己と眞清は更科を置いて駅に向かって、眞清は克己の隣…心持ち斜め後ろを歩く。
その歩調はいつもよりゆっくり目だな、と眞清は思った。
…更科を待っているのだろうが。頭の片隅でそんなことを思う。
もやもやする気がする自分の中の思考を押し出すように、眞清は細く息を吐きだした。
「疲れたか?」
克己の問いかけに眞清は顔を上げる。…そんな自分の動きで、今まで自分が俯き加減になっていたことを知った。
「…そうですね」
慣れないことをして疲れたことは、確かだ。
「克己は、大丈夫ですか」
『疲れたか』という意味合いと『背中』のことと――明確な言葉にはしないで、眞清は聞き返した。眞清の言葉をきちんと受け取ったのかは分からないが、克己は「ああ」と小さな声を上げる。
「まぁ、やっぱ疲れたな」
電灯の下――頷く克己の肩が強張っている気がして、眞清はとんとん…と軽くその肩を叩いた。
――もう、肩を張らなくていい、と。言葉にはしないけれど、伝えるように。
――克己の背に、自分がいるから…と。そのことを、知らせるように。
「お疲れさまでした」
意識せず漏れたのは、労わる言葉だった。
眞清に振り返る克己がゆるゆると瞬く。ふぅ、と息を吐きだした。…肩の強張りが、緩んだ気がした。それはもしかしたら、眞清の希望…贔屓目で、そう見せるのかもしれないけれど。
「…おう!」
応じて、克己は笑顔を浮かべた。「眞清もな」と、克己もまた眞清の肩を叩く。
そのまま、ぐっと背伸びをした。
「疲れたか?」
そこでそう問いかけてきたのは、自転車に乗ってきた更科だった。
自転車に乗ってきた更科だったけれど、克己と並ぶとおもむろに自転車から降りる。
自転車を押し、歩いて克己の隣に並んだ。眞清、克己、更科…と、並ぶ状態になる。
更科の問いかけに克己は「まぁな」と応じた。
「でもいい経験になったよ。声掛けてくれてありがとな、更科」
克己はそう、礼を言う。
「…おう。なんなら大森、バイトしてみればどうだ?」
更科の誘いに克己は「んー」と声を上げる。
「そうだなぁ…」
歯切れが悪い、と眞清は思った。けれど、先程の肩の強張りが眞清の気のせいでないとしたら…その返答は当然だな、とも思った。
学校であればどうにか壁や、椅子の背もたれ…最終的にはカバンをいう『背中』に『壁』を作ることはできるけれど、バイト中は無理だろう。
まぁ、克己が他人に背中を晒し『リハビリする』という強い決心の下、バイトをするのであれば『無理』ということはないかもしれないが、まだ、克己にとって『バイトをする』と決意させる明確な『理由』はないように見えた。
ほぼ克己と更科の雑談だけで駅に到着する。
眞清は二人の会話に口を挟まなかったし、更科は息つく間もなく…といえば大げさだが…克己に話しかけていて、眞清に話しかけてくることはなかった。
別に、それはいい。眞清も更科に話しかけられたところで『楽しい会話』とはならないだろうから。
ただ――少しばかり…静かな湖面にさざ波が立つように、眞清の心が震えるだけだ。
その心の動きにもし名前を付ければ『嫉妬』とかいうモノになるのかもしれないけれど、そこには気付かない振りをした。
「お、あと5分」
目がいい克己は、駅舎に掲示されている時刻表を見て声を上げた。
眞清にはぼやけてしまって、よく見えない。
時刻表が掲示されている…ということはわかるが、そこに記載されている時間までは判断できなかった。
「じゃあな、大森」
更科が克己に名指しで挨拶をする。
「ああ、また休み明け」
克己は軽く手を上げた。ひらりと指先を動かす。
「…じゃあな」
繰り返された更科の言葉に眞清はなんの気もなく更科に視線を向ける。
…その時、更科と目が合った。更科は、眞清を見ていたらしかった。眞清は数度瞬く。
「…お疲れさまでした」
小さく呟くと、更科はその場から立ち去った。
――今の更科の言葉は、眞清に向けられた言葉だったのだろうか。
改札口の真上当たりに時刻表は掲げてあった。眞清がその時刻表を見上げて時間を確認すると、克己が言ったとおりあと5分程度で電車が発車することになっている。
ホームに移動するために、改札機に定期券を通した。
先に改札機に定期券を通していた克己の隣に並ぶ。
拍谷駅では線路の下…地下を通ってホームに出る。地下には旅行を呼びかけるポスターや地元のイベントの告知ポスターなどが貼ってあった。
いつも最後尾を狙って乗車している眞清と克己は、自然と最後尾を狙って左右にある階段の内左側の階段へと向かった。
かんかんかん…と遮断機の警報が聞こえる。本当にいいタイミングで駅に到着した。
「丁度いい時間だったな」
階段を上りきると、克己が言った。
まだ電車の姿は見えないが、遮断機の警報の音は今も聞こえる。
電車は近いのだろう、ゴトンゴトンと重そうな音もとどいてきた。
「そうですね」
克己の声に眞清は応じる。
ほどなくして、電車のライトが見えた。強い光は直視すれば当然眩しい。
眞清は電車から正面へと視線を移したのだが、克己はぼんやりと電車が入ってくるのを見ていたらしい。「どわっ」と妙な声がする。…電車のライトで目潰しをくらったらしい。
「…何やってるんですか」
克己の様子に眞清は思わず突っ込んだ。
電車はブレーキをかける音と共に眞清達の目前を滑っていく。
髪を掻き混ぜ、軽く頬を打つ電車が起こした風は冷たかった。ただ、自然に吹く風よりは温かいようにも思える。
「電車、見すぎた」
まともにライト見た、と克己は目を擦っていた。
「…ドジですね」
素直に応じた克己に眞清はややため息混じりに応じる。
電車が停車した。ドアが開く。そこそこ利用される駅で、下りる客が多かった。
いつも朝は乗り込む客が多く、夕方には降りる客が多い駅だ。乗り込む客はそんなに多くはないが、車内は眞清達が通学する朝程度の乗車状況だった。
所々座席が空いてはいるが、克己も眞清も基本的にはあまり座席は利用しない。
アナウンスと共に電車のドアが閉まった。
「眞清」
電車が発車してしばらくすると、克己が声をかけてきた。
声にしては返事をしないが、顔を向けて視線だけで「何か」と応じる。
「今日さ、バイト中…更科と結構普通に喋ってたみたいだったな」
「…」
眞清は克己の確認するような問いかけるような言葉に一瞬息を飲んだ。
ふっと細く息を吐き出して「そう見えましたか?」と切り返す。
…いつ、見られたのだろう。
というか、克己から見て『普通に喋ってた』ように見える程度の時間、会話していたのだろうか。わざわざ時計を見つつ口を開いていたわけではないから判断できないのだが…。
「そう見えた」
そう応じた克己に眞清は「口頭で確認もしてましたからね」と続けた。
――眞清は更科と親しくしたつもりはない。
というか…更科のほうも、眞清と親しくするような気はないだろう。
眞清と更科の恋い求める相手が同じである以上、親しくなるのは難しい。
――そもそも、今までの傾向として眞清の友人に更科タイプはいない。
そんなことを思う。
「…こうとう?」
克己はぱちぱちと瞬きながら繰り返した。
眞清の言った『口頭』が咄嗟に漢字変換ができなかったらしい。
不思議そうに聞き返してくる克己に「口で言いつつ商品コードの確認とかしてましたから」と、やや説明するように言った。
眞清の言葉に「ああ」と克己は頷く。ちゃんと伝わったらしい。
「そっか」
「…だから普通に喋ってたように見えたのかもしれませんよ」
再び頷いた克己に、眞清はそう言った。
――会話の内容は、克己関連。
隠すほどでもないかもしれないが、あえて言いたいことでもない。
…そう、思うのだが。
「なんかさ、ちょうど通った時に『大森』とか『蘇我』とか言う更科の声が聞こえたと思ったから」
克己の一言に心の中だけで「え」と、思った。口にはしない。表情にもしない。
「――…」
ただ、視線を向ける。
「ちゃんと聞こえたわけじゃないんだけどな?」
棚越しだったから、と克己は頭の高さで床と平行にしてヒラヒラと手を振った。棚を表現しているらしい。
「棚越しで呼ばれた? とか思って、どうせなら顔見て返事しようと思って」
克己は沈黙したままの眞清にそう、説明をする。
「で、声の発信源が眞清と更科ってのは見たんだけど、別にあたしを呼んだわけじゃなさそうだ…って思ってさ」
そのまま歩いていった、と今度は箒で掃くように手をさっさっと動かす。
「…そうですか」
そう言いつつ、眞清は思う。
克己は…ある意味タイミングがいい。
――眞清からすれば、タイミングが悪い…と言うべきだろうか。
あえて聞かれなくていいことが、克己に聞かれてしまっている。
…教室での――弥生に告白された眞清の、断り文句。
今日も、別に克己に知らせたいような内容でもない更科との会話。
克己の『背中』でいようと思うから…傍にいたいと思うから――克己の傍らという場所を、誰かに譲ろうとは思っていないから。だから眞清は、眞清の気持ちや…克己を恋う、恋愛として好んでいる自分の感情を克己に知らせる気はない。
――少なくても、今は。
しかも今日…更科の口から、克己の眞清に対して『信用』があることを知った。
克己と共にいた――自ら共にいようと思った一年という時間。
振り回された期間を加えれば、もう少し長い一年半くらいになるかもしれないけれど。
…その時間の中、克己の中に形成されたらしい、眞清に対する『信用』。
それを壊して、克己に想いを告げる気はない。
克己の傍というポジションを離れる気はない。――克己を簡単に逃がす気は、ない。
この執着は、どこからくるのだろう。あるいは…自分自身の中にあったモノか。
こんなにも『誰か』に執着するのは――多分、克己で三人目。
眞清は友人がいないわけではないが…友人に対してこんな『執着』もない。
執着する『誰か』。
二人は、家族である親。…他人では、克己が初めてだ。