克己は眞清と更科の会話の内容を深く追求してくることはなかった。
聞き覚えのある声と、自分の名と、知っている名前と…それらで、少し気にかかっただけだったのだろう。
「眞清、明日空いてるか?」
電車を降りてから、克己は言った。
和山駅から家まで徒歩で約15分。普段夜に出歩かないから比べようもないのだが…夜の10時近くになっても意外と車が多いな、という印象だ。
眞清はいつものように心持ち克己の斜め後ろに並びつつ、応じる。
「用事はないですね」
眞清の返答に克己は「そぉか」と応じる。
「じゃあさ、ちょっと海に行ってみないか」
「…――」
海、と口の中だけで呟いた。――春休み前、「行こう」と言っていた。
結局、春休みに入って3月中には行っていなかった。
「…構いませんよ」
応じた眞清に「おし」と克己が頷く。
少し宿題でわからないところがあったから、それを教えてほしい…と克己は言い、「それが終わったら海に行こう」という話になった。
ほぼ、そういう出かける約束の計画を立てるのは克己だ。
基本的に眞清はついて行く…というのが通常だったりする。
他の友人の場合でもかなりの高確率で眞清は『付き合う』という行動であることが多い。
「眞清の家で教えてもらってもいいか?」
「はい」
頷いた眞清に「ありがとな」と克己は笑顔を見せた。…街灯の下、暗がりに慣れた目でその顔が見えた。
――なぜだろう。
なぜ、知っている顔なのに…別段、特別な顔でもないはずなのに――心臓が、跳ねるのだろう。
※ ※ ※
2時頃になって克己は眞清の家にやってきて、わからないところを教えて…結局、海に向かったのは3時頃だった。
海には自転車で30分くらいで行ける。
前に克己と二人で来た時には誰もいなかったが、今日は犬の散歩をしている人と会った。
大きな黒毛の、毛深い犬…眞清は犬種に詳しくないため、それがなんという犬種なのかはわからない…を三頭を連れた男性と、一頭連れた女性だった。
もしかしたらその四頭の犬は親子か何かなのかもしれない。全部同じ犬種に見えた。
犬に気付いた克己は「でかっ」と呟く。
男性が連れていた三頭の内の一頭の犬が克己の声に反応するようにこちらを見た。
克己は軽く膝を曲げて「かわいいなぁ」と声を上げる。
言葉にはしていないが「こっちにおいで」と犬を誘っているようにも見えた。
きちんとしつけをされている犬なのだろう、犬を見ている克己に突進してくるようなことはない。克己に声をかけられた一頭はひもを持った男性に一度顔を向ける。まるで「行ってもいい?」と確認するように。
「触ってもいいか?」
克己が問いかけると「どうぞ」と男性が応じた。
飼い主である男性の了承を得て、克己は「よぉ」と犬に声をかける。
手のニオイを嗅がせて、大きな頭に手を伸ばした。
眞清は、そんな克己の隣に…いつもより更に背中となるように、立つ。
「ははっ。柔らかい」
くしゃくしゃと毛深い犬の頭から首を撫でながら克己は笑った。
男性が連れていた他の二頭も「ナニ?」「誰?」と言わんばかりに克己のニオイをふんふんと嗅ぐ。その二頭にも克己は「よぉ」と声をかけて、順々に頭を撫でた。
おもむろに克己は「親子?」と言うと男性が「兄弟だね」と応じる。
「へぇ」
兄弟か、と言いながら克己は再び犬達の頭から首を撫でた。
「あの子が母親」
そう言いながら男性は女性が連れた一頭を示す。
やはりというべきか、犬はみんな家族だったらしい。
「こんにちは」
克己が声をかけると女性も「こんにちは」と応じた。
三頭の犬を撫でていた克己に、女性もまた近付く。
克己は四頭の犬に囲まれていた。
「母さんなんだって?」
克己は言いながら女性が連れた犬にも手を差しだした。
ニオイを嗅がせた後、母犬だという一頭の頭も撫でる。
最初克己が頭を撫でていた犬が飽きたかのようにふいっとそっぽを向いた。
その一頭に続いて、二頭目、三頭目…と主である男性に「行こう?」と問いかけるように顔を向ける。やはりしっかりしつけをされているらしい。さっさと自分だけで行こうとはしない。
「ありがとな」
犬と…飼い主の男女に克己はそう言うと、最後に母犬の頭を一度撫でた。
ぱさぱさっと大きなしっぽが揺れる。
なんだか「じゃあ」と人間が手を振る代わりのようだ。
しばらく、遠くなっていく四頭と二人を見送った。
「眞清は触らなくて良かったのか?」
かわいかったなぁ、と呟き、克己は言った。
「ええ」
頷いた眞清に「なんだ?」と克己が不思議そうな顔をする。
「…あれ? 眞清って犬ダメだったっけ?」
克己の問いかけに眞清は意識せず苦笑した。
「――得意ではなないですね」
応じた眞清に「そぉか」と頷いた克己だが…むしろ眞清としては、「克己は犬が大丈夫なのか?」とか、思う。
…眞清は小さい頃、犬に咬まれそうになったことがある。
――大人に言わせればじゃれついてきただけだったらしいが…。
とにかく、眞清は大きな犬に『咬まれる』と思った。下手をすれば『食われる』と、思ったのかもしれない。眞清が今よりずっと小さくて、大きい犬が今感じる大きさより更に大きく感じたことも『食われる』と思った原因かもしれないが。
そんな眞清を助けた…というか、犬との間に割り入って眞清の盾となったのが、克己だった。
大きな犬に突進して、「ますみ、にげろ!」と言った。
驚いて…怖くて、動けないままでいる眞清を庇うように克己が立つ。
「ますみをいじめるなっ」と、小さい手で大きな犬を叩いた。
――そして。
克己は、その大きな犬に腕を咬まれたのだ。
血は出なかった。
…それでも『克己が咬まれた』という事実は、眞清の中に刻まれた。
追い打ちをかけるように――というか、眞清の苦手意識を犬もまた感じ取るのか――犬に追われたり、ほえられたり、唸られたり…とどうも、眞清は犬と相性が悪い。
『見るのも嫌だ』と言うほど嫌いなわけではないが、成長した今でも眞清はどうしても犬が苦手だった。特に大きい犬は。
「克己は、別に平気なんですね」
「へ?」
克己は不思議そうな声を上げる。眞清は「犬が」と端的に応じた。
「…まだ日本にいた時…確か、一度大きな犬に咬まれてましたよね?」
「――…」
眞清の問いかけに克己は瞬いた。そのまま考えるように…思いだすように目を細める。
「…あぁ、そういや、そう…か?」
言いながらも、何やら記憶が曖昧らしい。語尾に疑問符が付いている。
「ビビった、って気はするんだけど…なんだろうな。だからってそれ以来『犬が嫌い』ってこともないなぁ」
記憶の扉にノックするように、克己は軽くこめかみを叩く。
「…あぁ、甘咬みだったんじゃないか?」
「――あまがみ?」
眞清は克己の言葉を繰り返した。
克己は頷いて、指をそろえた右手で何かを挟むようにぱくぱくと動かす。
「歯が当たっても、痛くはないんだよ。遊びで咬むようなカンジ?」
ぱくぱくと動かしていた右手で克己は自分の左腕を挟んだ。『咬む』という意味だろうか。
「――って、言葉の意味はわかるか」
克己は説明してから、笑った。
「…いえ、わかりませんでした」
眞清は素直に白状する。『あまがみ』という言葉を眞清は知らなかった。
「え?」
意外そうな顔をしたのは克己だ。「本当か?」と問いかけてきた克己に眞清は頷く。
ゆるゆると克己は瞬いた。眞清の顔を…目を、覗き込むようにして見つめる。
…なんでこんなにもガン見されるのかがわからない。
「――今日は4月1日だよなぁ」
ぽつりとした呟きは、今までの話の流れとはなんの関係も内容に思えた。
「4月1日ですね」
けれど、克己が言ったことはそのとおりだったので眞清は頷く。
昨日はバイトをした3月31日。その翌日である今日は4月1日だ。
春休みの残り日数も少ない。
「しかし眞清はあえて乗るほうでもないか…?」
「――…?」
克己の小さな呟きが聞こえた。意味が分からず、目を細めてしまう。…訝しげな顔、と言えるかもしれない。
「…それにしても、よく覚えてたな」
「はい?」
何を、と思って聞き返すと、克己は「あたしが犬に咬まれたこと」と応じる。
「痕も何もないし…あたしは正直忘れてたぞ」
言われて思いだしたくらいだ、と軽く右腕を撫でた。
その様子に克己が咬まれたのは右腕だったのだろうか、と推測する。どちらの腕を咬まれたのか…ということまでは覚えていなかった。
「…子供心に衝撃だったんじゃないですか」
言いながら…少し掠めた思考に自分自身の性格の悪さが滲み出ているな、などと思う。
――もし。
もしも、その時の…犬に咬まれた時の痕が残ったなら――眞清の盾となって作られた傷痕ということで…『眞清の所有物』みたいな『刻印』となっただろうか。
…克己を眞清から離さないための鎖になっただろうか。
克己と共にあることは当初、苦痛だったのに…今ではこんなことを思う。
自分自身の思考に意識せず苦笑した。
風が吹き、自分の思考を吹きさらして流すように身体も向ける。
海から吹く風は、少し寒かった。
一応4月に入って、陽射しが春めいてはいても、全てが一気に春らしくはならないのだろう。
眞清は海からの風に目を細める。
「? 衝撃?」
風が弱くなった後、克己が口を開いた。眞清の呟きは聞こえていたらしい。
「――自分の体が今より小さかったということもあるとは思いますが…」
前置きをして、眞清は続ける。
「あの犬に食われる、と思ったんです」
そう言うと、克己はきょとんとした。眞清はそんな克己から視線を外す。
「――咬まれた克己も、食われるかと思ったんです」
寄せては返す波の音が響く。
気にしていなければ気にならないが、一度気にとめれば、単調とも言えるその音が妙に響いた。…けれど、不思議と耳障りではない。
ザザン、ザザン…静かに、単調に…繰り返される、波の音。
「くはっ」と吹きだすような声が聞こえた。その発信源は、当然というべきか。
「…笑うようなところですか」
克己だった。思わず切り返した眞清に「いや」と…何が面白いのか、今もにまにましている…克己が、言葉を続ける。
「そりゃ、『食われる』と思えば衝撃だよな」
口元を覆って零れる笑いを押し戻そうとしている克己だが、それは動きだけで終わった。くくっと口の端から声が漏れる。
「なんだろうな。本当に、忘れてた」
ようやく笑いがおさまって、そう続けた。
今のところ、犬を怖いと思ったこともない、と。
「家じゃ飼ってないんだけどな。それでも、不思議と…」
そこまで言って、克己は一旦言葉を止めた。
言葉を止めた克己に、眞清は思わず視線を向ける。
――今も、波の音は静かに繰り返されている。
克己は海へと視線を向けていた。
口元を覆っていた、零れる笑いを押し戻そうとしていた手はそのままで…笑いが、収まっていた。
海へ視線を向ける克己。…遠く――想いを馳せるような瞳。
「…克己?」
眞清は呼びかけた。すると、克己はハッとする。…視線を海から、眞清へと移した。