「あ、いや…」
克己は口元を覆っていた手を外した。眞清から再び海へと視線を向ける。
数度、浅い呼吸を繰り返した。
「――家じゃ飼ってなかったんだ。…けど、そういや、向こうではよく遊んでたから」
向こう、と言いながら克己は海を示した。
――克己の言う『向こう』が、克己が8年過ごしたアメリカを示していることに、眞清は気付いた。
「ソイツがわりとでっかい犬で――そのくせ結構甘えん坊でな」
海を示したいた指先を下ろしつつ、克己は続ける。
「…そのせいかな。犬は嫌いじゃないし、怖いとも思わない」
遠い土地を思うように…遠くの『誰か』を想うように、克己は続けた。
視線は今も海に向けられたままで――その視線は、海ではない『何処か』を映しているようにも感じられた。
「――更科って犬みたいですよね」
しばらくの沈黙…波の音だけが支配していた時間を、打ち壊したのは眞清の一言だった。
「…え?」
克己は眞清へと視線を向ける。そのことは感じていたが、眞清は先程の克己のように海を見ていた。
克己が自分へと振り返ったことを視界の隅に映しながら、克己を見ないまま言葉を続ける。
「…僕は犬が得意ではありません。――僕が更科のことが得意じゃないのも、更科が犬っぽいせいか、と」
(…何を言ってるんでしょう)
自分で言いながら、自分自身に突っ込みをかました。
何故に此処で更科の名を出したのか、自分は。…自分自身で意味不明だ。
眞清は考えるようにしながら、口にフタをする。
…今更、零れた言葉を拾い集めて取り戻すこともできないのだが。
「…眞清って、更科が苦手なのか?」
「得意ではありません」
『苦手』と言うのは、なんだか『負け』な気がして、そう言いたくはなかった。
…それに、『苦手』と『得意ではない』はちょっと違う気がする。
眞清の中で、更科の存在はあくまで『得意ではない』印象だ。
「なんだそりゃ」
克己の声音が少し明るいトーンになった。語尾に少しばかり笑いが混じる。
眞清は克己に視線を向け、意識せずほっとした。
…声音ばかりではなく克己の口元が綻び、微かに笑みの形を取っていたから。
拾い集めることができなかった言葉を放置して、眞清は口元を覆っていた手を外した。
「そういう克己もビビってたじゃないですか」
「…――ここでそういう切り返しをするのか」
克己の笑みが、苦笑へと変わった。言いながら、その場にしゃがみこむ。
――更科に、克己はビビッていた。
眞清にはそう見えたし…告白をされてビビッてしまった、ということを、克己自身から聞いた。
「…更科自身が苦手ってわけじゃないぞ」
ぽつりと言葉を零す克己を見つめる。
眞清の視線から目を逸らさず克己は「ただ」と口を開いた。
「――向けられた感情が、怖かっただけだ」
「……」
『怖かった』と、克己は言葉にした。眞清を見ながら――明確に声にした。
「…今でも?」
眞清は意識せず聞き返す。
――克己は、『好き』という感情が怖いと言った。
『好き』だと…自身に向けられる感情が怖い、と。
――克己の背中を傷付けた相手が向けた感情だったから。
克己の背中を傷付けたのは…パニックを起こして背中を刺した相手というのは、克己が『大事』だと言った…大切だったという、相手。
そんなことがあってはトラウマになっても仕方のないことだとは思う。
――自分の大事な、大切な…もしかしたら信頼していたかもしれない相手に傷付けられれば、『誰か』という特定できない存在に背中を晒すことができなくなるのは、仕方のないことだと思う。
…その相手が抱いていたという感情が怖くなることもまた…当然のことかもしれない、と。
「――そうだな」
しゃがみ込んでいた克己は、その場に腰を下ろした。視線を海へと向ける。
倣うように、眞清もまた克己の隣に腰を下ろした。
寄せては返す、波の音。
単調なようで…よく聞けば、いずれも違う響きで。
波の音に意識を集中させていれば、自分の思考が浚われそうで…自身に意識を向けていれば、より思考を深められそうな気もした。
「僕は…」
口の中だけの呟きだった。
けれど、克己と眞清しかいなくなった砂浜は静かで、克己にとどいたらしい。
海を見ていた克己が眞清へと振り返る。
隣には並んでいた。けれど、寄り添うほど近くはない。
手を伸ばせばとどく距離ではあるけれど。
「…僕も、怖いですか?」
「――え?」
克己が不思議そうな声を上げた。
眞清は克己に手を伸ばす。触れず…けれど頬の熱を感じられそうなほどに近くに。
「――もし、僕が好きだと言ったら」
眞清の言葉に克己が目を丸くした。
伸ばしていた手…その指先で克己の頬に触れると、びくりと震えた。
…その反応が、答えだった。
「…なんて」
眞清は触れた指先を離した。
「ゴミ、ついてましたよ」
克己に触れた指先を軽く擦り合わせる仕草をする。
…ゴミがついていたというのは、ウソだった。
「僕にビビッてどうするんですか。克己の背中になるって言ったでしょう」
――言わない。
好きだ、なんて。
…言えない。
克己をビビらせて…怖がらせて、『克己の傍』とポジションを失ってしまっては元も子もない。
――克己の傍らにいたいと思うから、言えない。
『好きだ』と…『LIKE』ではなく『LOVE』の意味で『好きなのだ』と――伝えることは、できない。
「…そういや今日は4月1日だな」
「? 4月1日です」
応じて、「ああ」となった。
4月1日…エイプリルフール。――ウソを吐いても許される日。
(ただ…吐くなら楽しいウソ、じゃなかったでしたっけ?)
今の克己の反応では、『楽しいウソ』とは到底言えない。
ホッとしたような顔をする克己に、眞清は笑った。
いつもの…自分の思考を読み取らせないための、笑顔で。
「騙されましたね」
「…本当にな」
――本気だと言ったら、どうしますか。
その言葉は、口にしないまま…閉ざす。
「…眞清って意外とそーゆーのに乗るんだな」
ぶつぶつボヤく克己に「たまには、いいでしょう?」と応じた。
そのほうが騙されるでしょうし、と続ける。
「…結構本気で、騙された」
「ふふ」
縮こまるように体育座りをした克己に笑うと、克己は眞清を少しばかり睨むように見てきた。
「…この前も言ったでしょう? 『ウソだ』と」
克己に聞かれてしまった…弥生への言葉。
付き合いたいと言った彼女に断る言葉。
『克己と一緒にいたいと、思います』
『試し』で誰かと付き合う気にもなれない、と。――だから、付き合えないと言った。
克己に聞かれてしまった言葉は、弥生に対する設定だと。
本当は――設定が、『ウソ』だけれど。
「――そうだな」
睨むように見ていた克己だったが、数度瞬くうちに『睨む』様が薄れる。
頷いてみせた克己は、眞清が言った『この前』がいつを示していたのかちゃんとわかったらしかった。
「…そういえばさぁ」
膝を抱えて縮こまっていたような克己だったが、その腕から膝を解放して、口を開く。
「…あの時、あたしに迷惑をかけるかも…みたいなコト言ってた気がしたけど、結局どういう意味だ?」
克己の問いかけに眞清は「え?」と言った。
しばらく考えた後に思いいたって「ああ」と声を上げる。
「今のところ、迷惑はかかってないですか」
首を傾げつつ、「ないと思うけど」と克己は応じた。
「それじゃあ、僕の気の回し過ぎですね。気にしないでください」
「気になるから聞いてんだろーが」
克己の切り返しに眞清は細く息を吐いた。
眞清に『付き合いたい』と言ってきた弥生。…気の強そうな弥生。
眞清が片想いをしている相手である克己に、何かしらちょっかいを出すかと思ったのだ。
…気が強ければ、変な思考展開で眞清の克己に攻撃にいたるかと、思ったのだ。
「実際に迷惑がかかってから説明しますよ」
現状、そういったことがないならあえて説明する必要もないだろう…と眞清は考えた。
「なんだそれ?!」
やや唸るような克己に眞清は再び笑う。
「気にしないでください」
「あ゛ー、ヤなヤツ!!」
克己は言いながら立ち上がった。
「はいはい」と応じつつ、眞清もまた立ち上がる。
手についた砂を払う。座っていたため、パタパタと尻や太ももも叩く。
「帰るか」
喚いていた克己だったが、眞清に視線を向け、言った。
「…そうですね」
ヤなヤツ、と言いながら…それでも、克己は眞清に傍らを許した。
――『背中』であることを、許した。
「ヤなヤツ!」
克己は海に向かって叫ぶ。
まだ言うのか、と思いつつも眞清はその言葉を否定しなかった。
「自覚してます」
「否定しないのか」
くるりと振り返りつつそう言った克己に眞清は笑う。
笑う眞清に、克己はゆるゆると瞬いた。
「――ヤなヤツなのは、あたしだ」
克己が、何かを言った。
…けれどそれは小さな声で――もしかしたら声なき声で、眞清には克己が何を言ったのか、理解できなかった。
「…? 今…」
なんと? そう聞き返した眞清に克己は笑う。
「――なんでもない」
言いながら見せたのは――時折見せる…いつもの飄々とした笑みとは違う、笑み。
「…――」
聞きとれなかった言葉が気になった。…その笑みが、気にかかった。
見つめる眞清に、克己は再び笑った。
今度はいつもどおりの…飄々とした笑顔を浮かべる。
「ほら、気になるだろ? 中途半端なカンジ!」
「…そうですね」
克己の言うとおりで、眞清は頷いた。
「で、結局なんなんだ、迷惑って」
「――…まぁ、その内…」
応じた眞清に「結局言わないのか」と克己は息を吐く。
余計な気の回しようらしかったのだから、言う必要もないと眞清は判断していた。
克己の傍に。…傍らに。
そう願う…自身の執着のような感情が、克己の恐れる感情だとわかっている。
――だから、言わない。
好きだ、と。
…だから、言えない。
克己の傍らを望んでいる眞清だったから――…。