「おはよう〜」
呑気なクラスメイトの声に私は振り返った。
「おはよ」
二ノ宮春だ。
呑気な声同様、性格もぼんやり…ほんわりしている。
「宿題やってきた?」
「一応…自信はまったくないけど、やるだけやった」
私の問いかけに春はそう言って、ひとつ息を吐き出した。
「当たらないことを祈る」
「…確かに」
春の言葉に私も頷く。
私もやるだけやったけど…やっぱり、自信がない。
でも科学ってこれから生きてくのにどれだけ必要なんだろう? なんて思ってしまう。
…屁理屈かな…?
タイミングを計ったかのようにチャイムが鳴った。
春が「おっと」とぼやいて、自分の席に腰をおろす。
――春は学校からめちゃくちゃ近いらしくて、いつもギリギリに登校してくる。
今日の準備みたいなことは前日の放課後にすませるから、当日は時間に間に合えば問題なし。とか前に言っていた。
私は教室のちょうど真ん中辺りの席。
窓の外を見て、ひとつため息をつく。
…なんのため息なのか、自分でもわからなかった。
鍵を挿しこんで、回す。
ガチャン、と錠が外れる。
もう一つの鍵も挿しこんで、回す。
家の中に入って、二つの鍵を閉めた。
「おっかえり〜っ!!!」
「…!!」
声に私はかなり驚く。
何事、と振り返れば男の子がいた。
「お・か・え・り!」
「あ…あぁ、ただいま…」
男の子――常盤は満面の笑みを浮かべた。
「随分…早いんだね?」
「う? そう?」
言いながら常盤はリビングへと向かう。
私は着替えるために自室に向かった。
着替え終わった頃にトントン、とノックする音が聞こえる。
「なに?」
相手は常盤以外にいない。(常盤以外だったら…怖い)
返事だけで答えると「開けてもいい?」とドア越しに声が聞こえた。
「いいよー」
ドアが開くと、予想通り常盤がいた。
「今夜なぁに?」
「何? 夕飯?」
「うん」
「食いしん坊だね〜」
私は笑ってしまった。
まぁ、小学生ってのはきっと、大きくなる時期。色々食べなくちゃいけないんだろう。
お腹も空くのかな。
「特にまだ決まってないけど…」
冷蔵庫に何があったっけ、と考えながらリビングに向かった。
するり、と足元を何かが過ぎる。
「うわっ! …っと」
…カンタだ。
今まで家に猫がいなかったから、突然のスリスリに本気で驚いてしまった。
「カンタ」
呼びかければ「なー」と私の顔を見上げて、小さく答える。
「ゆきちゃん驚かせちゃダメだよ」
常盤はそう言いながらカンタを抱き上げた。
「ごめんね」という謝罪の言葉に「別にいいよ」と笑う。
少し驚いただけだし。
そう思って、常盤をマジマジと見た。
(――ってか…常盤って丁寧な子だよねぇ…)
近頃の小学生と接触する機会は皆無に等しいから、比較のしようがないといえばないのだけれど…。
きっと、躾がいいんだろうな。
私の視線に気付いたのか、常盤が少し首を傾げてから、笑う。
ドキリ、と一度鼓動が速まったように思えて自分自身に焦った。
(な、なんだ…っ?!)
「な、なんでもないよ」
「そぉ?」と常盤は反対に首を傾げて、また笑った。
…不思議な笑顔。
ガキ大将のような不敵の笑みじゃないし、何かイタズラを誤魔化すような笑いでもないし…。
(だからって、ドキドキすることないし…っ)
訳がわからん。
私は考えを振り払おうと頭を振った。
「おはよぉ」
「…ハヨ…早起きだね…」
リビングに来てみれば、常盤がいた。
カンタは日向ぼっこをしているのか、窓辺で寝転んでいる。
「早寝早起きは三文の徳ってね」
「…ドコの年寄りよ…」
私は欠伸をかみ殺した。…かみ殺そうとして、できなかった。
大きな欠伸が出る。
「ゆきちゃんも早いんじゃないの?」
「まぁ…常盤がいないときよりは…」
母はもう、いない。
どれだけ早起きしてるやら。
家を出たのも知らない。
…そのくせ帰ってくるのは遅いし。
(体壊さなきゃいいけど…)
私はコップに半分くらい水を汲んで、ゴクゴクと飲んだ。
ここ最近の習慣になっている。
食道を下っていく冷たい感覚。
顔も洗うのもそうだけど、目が覚める気がするのだ。
「うぅー!」
私は思いきり伸びをした。
今日も一日が始まる。
「おっはよー」
声をかけられて振り返れば、後ろの席の明菜。
「ハヨ」
バスケ部のマネージャーをしている、ショートヘアの女の子だ。
ボーイッシュなのは外見だけで、お菓子作りが趣味らしい。
前に『お裾分け』とかなんとか言われつつクッキーを貰った。
「優喜、この頃来るの早くない?」
「え? …そう?」
言いながら私は時計を見上げた。
8時半。
――あぁ、前は大体8時45分くらいに学校に着くくらいだったから、確かに少し早くなってるかも。
「そういえばそうだね」
「自分で気付いてないんだ」
明菜がククッと笑う。
「なんか顔色もいいし、いいことでもあるの?」
「はぁ?」
予想外の明菜の言葉に妙な声をあげてしまった。
「イイコトって?」
問いかけると明菜は小声で言った。
「男ができたとか」
「…ハイ?」
学校に来るのが早くて顔色がいい…。
それでなぜ『彼氏ができた』になるんだろう?
「いない、いない」
私は手を横に振る。
ついでに首も振る。
「うわ、全否定」
「嘘ついたってしょうがないでしょ。実際いないしさ」
「人のハナシ聞くの好きなのに〜」
明菜は私の机に腕を伸ばして、その場に座り込んだ。
「同意見。明菜のほうはどうなの?」
「げ、切り替えされた」
「当たり前。聞かれたら聞き返すのは常識」
そんな常識知らない、と明菜が笑う。
いつも通り時間ギリギリに春が登校して「オハヨ」と挨拶した。
挨拶を返して春が席についたとほぼ同時にチャイムが鳴る。
「時間切れ」
「そうやって逃げるのか」
「ヘヘヘッ」
明菜が「してやったり」というようにニヤッと笑う。
「今度しっかり聞かさせてもらうから覚悟しといて?」
「ビミョーにコワイんですが、ユキサン」
ナゼが片言ちっくな明菜に「ふふふふふ」と私はわざと怪しげに笑う。
「おらー、チャイムはもう鳴ったぞー」
クラス担任…ヒョロリと背の高い七三頭…平坂先生の朝からやる気をなくすような呼びかけ。
前を向くと出席を取り始めた。
彼氏なんていない。
…そもそも、好きな人もいない。
そのテのハナシに興味がない、なんて言ったら嘘になるけど…。
明菜が喜ぶような話題を、私から提供することはできない。
(…そういえば…)
肩につくかつかないか、くらいの長さをしばったりせずそのままにしているストレートの髪。
私より前の席にいる春の後姿を見ながら思う。
のんびりしているように見える春の『そーゆー話』を聞いたことがないけど…。
春はどうなんだろう?
…そういえば、春とはそんな話をしたことがないような気がした。
「春って彼氏いるの?」
「………」
明菜の問いかけに春はゆっくりと顔を上げた。
お昼休み。
女子はなんとなくグループっぽくなるけど…まぁ、私達のクラスもなんとなく『いつもの友達』に分かれる。
いつもは部活仲間(なのか他のクラスの友達か…)と食べているらしい明菜が、今日は珍しく教室にいるなぁ、なんて思っていたら突然そう言った。
ちなみにいつもだと私が窓側の春の席に移動して、春の前の席の人の椅子だけ借りて、春と二人で食べていることが多い。
明菜はガタガタと春の隣の席の椅子を私の机の横に引っ張ってきて、座る。
シンプルなカエルのイラストの描いてある黄緑と水色の間…みたいな色のお弁当箱を広げた。
私はコンビニで買ったジャムとマーガリンのコッペパンを齧る。
今朝の明菜の話を聞いて、私もそんなことを思ったところだったから、ある意味『いいタイミング』と言えるのかもしれない。
私も気になっていた。
「…へ?」
かなりの間を置いて春はそんな妙な声を上げる。
「だからー、彼氏! いるの?」
春は瞬く。
瞬いて明菜から私へと視線を移した。
「え?」
「いや、私に助けを求められても…」
春は二度、三度と瞬いて視線を春のお弁当箱へ落とした。
春のお弁当箱はくすんだ赤に、梅みたいな花模様の和風ちっくな模様の描かれたもの。
蓋を開けて、ふりかけをかける。
「いただきます」
「えぇっ?! そんなスルーの仕方?!」
お揃いの箸箱から箸を取るとご飯を一口、春は口にした。
一度、二度、三度。
春は常におっとりしたような子なのだけど、それはお昼ご飯の時も変わらない。
ゆっくり噛んで、ゆっくり飲み込む。
常備してる水筒からお茶を注いだ。
麦茶かな? 中身はわからない。
「なんで、いきなり?」
お茶を飲んだ後に、春は明菜にそう聞き返す。
確かに唐突っちゃ唐突な問いかけだ。
…もともと明菜はそういう子だけど。
「なんとなく。聞いたことないような気がして」
――やっぱり。
明菜らしい『なんとなく』という答えに春はまた瞬いていた。
私は黙って様子を窺う。
「…いるように見える?」
春は逆にそう、明菜に問いかけた。
「いるの?!」
と途端に目を輝かせる明菜。…本当に好きだね、そういうネタ…。
なんて、じっと春を見つめてしまう私が考えていいことじゃないか。
春はマイペースに昼食を続ける。
口に含んだ玉子焼きを飲み込むと、また瞬いた。
「話題を提供できるような相手はいないよ」
春の答えに「なぁんだ」と見るからに肩を落とす明菜。
「正直、そんな暇ないし」
ポツリと溢した春の言葉。
そうなんだ、と私は頭の片隅で思ったけど、明菜は食いつく。
「そんなに忙しいの? バイトとか?」
春は部活に入ってない。
朝ギリギリに学校に来て、夕方は委員会とか特別なことがないと、さっさと帰っている。
「うんまぁ…そんなトコロ」
頷きながら春は窓の外を見た。
私もつられて窓の外を見る。
いい天気だ。
「春がバイトかー。何してるの?」
春が視線を窓の外から明菜に移しつつ「フツーの。家の傍のスーパー」と答える。
「品出しとか、たまにレジ打ちとか」
「品出しか。面白い?」
「レジ打ちよりは、自分のペースでできるからいいかも」
「あー、自分のペースでできるってのはいいよねー」
私の言葉に春は頷く。
「そうやって訊いてくる明菜ちゃんは? どうよ?」
「ぬおっ?! 春もそうくるかっ?!」
「いや、訊かれたら訊き返すべきかと」
「アハハ。私と似たようなこと言ってる」
そう? と春は首を傾げる。
頷くと「じゃあ吐いてもらおうか」と明菜に淡々と言った。
結局明菜からは『只今熱烈片想い中』という現状を聞き、お昼休みが終わった。
…明菜の好きな人自体は教えてもらえなかった。残念。
(好きな人…ねぇ…)
そう言えばこの頃トキメキがないかも、とか。
ちょっと考えて「どーなの私」って、ちょっとだけ思った。
(最後に好きになった人って誰かなぁ…)
ちょっと考えて『中学の時か』と思う。
でも、好きな人はいたけど…相手は先輩で、好きは好きだったけど多分『憧れ』で。想いを伝えたり、アタックらしいアタックもしなかった。
一度ため息をつく。
『好き』っていう想いは薄まって、今残るのはじんわりとした感情のカケラだけ。
ひとつ息を吐き出す。
(…ってか、明菜の好きな人誰だろう?)
私は思考を切り替えた。
7時くらいまで普通に明るい今日この頃。
突然の委員会の招集で、私は帰るのが遅くなった。
とは言っても、今は5時。
家に着くのには大体20分くらいかかる。
「ただいま」
「あ、おかえり〜ゆきちゃん」
「遅くてごめん、ただいま」
「なー」
同じ言葉を繰り返した私を、まずは常盤が迎えて、続けてカンタが鳴く。
「ただいま」
カンタにも応えて、私は抱き上げた。
フワフワ。かわいい。
頭をなでると夏の空みたいな青い瞳を細めた。白いヒゲがぴくぴく動く。
着替えが済んで、居間に行った。
常盤はカンタと遊んでいる。
テレビはついていない。
「夕飯なんか食べたいのとかある?」
「チャーハン」
端的な常盤の答えに私は思わず笑ってしまった。
「了解。卵あったかな…」
冷蔵庫を覗いて、卵を発見。
引き出しに、混ぜて炒めるだけのチャーハンの素も発見。
うまくパリッと出来るかは別として、チャーハンを作るのは結構ラクだ。
「まだいいでしょ?」
時計が指すのは午後の6時前。
「うん」
頷く常盤に頷き返して、私はテレビをつけた。
『今日のニュースは…』
「……」
なぜか堅苦しい国営放送のニュースが表示された。
…ニュース番組かなんか、見たっけ?
(あ、母さん…?)
自分で思って、いいやと考え直す。
母さんの靴はまだなかった。
帰ってきたとは思えない。
(あ、昼間に一度帰ってきた…とか?)
…そんなことを考えてみたけど、結局答えは思いつかず。
まぁいいか、とチャンネルを代えた。
時間帯のせいか、どのチャンネルも面白そうな番組はやっていない。
「常盤、なんか見たいのあったら見ていいよ」
「んー特にないー」
ソファにチョコンと腰を下ろしたまま、そう言う。
丸くなったカンタをゆっくりと撫でていた。