お腹が痛いのはなかなか治らず…違和感は、家に帰るまで続いた。
痛くはないのだけど…。
「うをー!」
「ぎゃーっ」
「待てーっ!!」
「……」
小学生くらいだろうか?
男の子達が大騒ぎしながら私を追い越し、走っていく。
元気だなぁ、と思うと同時に常盤を思った。
…常盤がああやって騒ぐのを想像できない。
(なんか…落ち着いてるんだよなぁ…)
同級生にもウルサイ…騒がしい? ヤツはいる。
下手をすればそんな同級生よりも落ち着いているような気さえしてしまう。
(………ん?)
男の子達の姿はまだ見えていた。
黒いランドセルを背負っている。
ランドセルの色が色々出てた気がしたけど、やっぱりスタンダードな黒が一番いいのかなぁ…なんて、そんなことではなく。
(常盤…って…)
今朝は朝ご飯を用意してくれた。
いつも、私より早く家にいる。
…私より遅くまで家にいて、私より早く家に戻っている。
学校に間に合っているんだろうか?
(え…と…?)
4年前の記憶をたどる。
私と同じ小学校に行ってるなら、当時の私で歩いて大体30分かかったような気がした。
――小学校って、始まる時間何時だったっけ?
――終わる時間は、何時だったっけ…?
そんなことを思っているうちに、家についた。
「…ただいまー」
居間の電気がついているのが、曇りガラス越しにわかった。
いつも常盤は、私が帰ってくるころには電気をつけていない。
珍しいな。
…それに、いつも「おかえり」って言ってくれるのに…。
いつもは部屋に向かう私だったけど、今日は電気のついている居間に向かった。
ソファの上に、常盤よりも大きな人影。
人影が振り返る。
「…あ、オカエリー」
私は瞬く。
瞬いて、瞬いて…ようやく、その人を呼んだ。
「………お母さん」
久しぶりー、なんて腕をヒラヒラさせるお母さん。
本当に「久しぶりー」だ。
「な? …で? アレ?」
「今日はちょっと手が空いたから、帰らせてもらっちゃった」
アハハ、と愉快そうに笑う。
「ずっと残業三昧だもの。いいのいいの」
私が「いいのか?」という表情でもしていたのか、そんなことを言われた。
なんとなく見ていたのか、テレビがついていた。
…常盤がいない。
「お母さん、常盤は?」
「ん?」
お母さんは少し首を傾げる。
よく聞こえなかったのか。
「常盤、は?」
言葉を区切って問いかけた。
お母さんは目を細め…いや、若干眉間にシワを寄せて、逆に首を傾げる。
「なんのこと?」
「…え…」
なんのこと…って…。
「常盤。常盤だよ、親戚の…」
私の言葉にお母さんは眉間のシワを緩めた。
――緩めたけど、今度表情に浮かぶのは、疑問。
「親戚? 優喜、誰のこと言ってるの?」
「――え、だ…って…」
だって、と言おうとして声に詰まった。
緑がかった青い瞳。先祖返り。
親戚。…家の事情…。
(…あれ?)
突然、見えない目隠しが外されたような感覚。
お父さんは3人姉弟の真ん中、お母さんは2人姉妹の妹。
…お父さんのお姉ちゃんの梓おばちゃんの子供、私の従姉弟は私より年上。
もう、あまり交流もない。
お父さんの弟の篤おじちゃんはまだ結婚してないから、イトコはいない。
お母さんのお姉ちゃんの美香おばちゃんに子供は…まだ、いない。
おじいちゃん、おばあちゃんの兄弟姉妹とはあんまり関わりがないし、一応交流のある親戚はお父さんとお母さんの姉弟の家族…従姉弟までだ。
そんな狭い『親戚』の中で、先祖返りとかするような存在は、ない。
あの目の色が現れる要因がない。
(え…まって…)
じゃあ、あの子は――『誰』なんだ?
…どうして、あんなにもすんなり信じることが出来たのだろう。
『おはよぉ。ゆきちゃん』
落ち着いた口調の、同級生よりもトーンの高い声。
思い出して…常盤だということは、わかるのに。
常盤が『誰』なのか、わからない。
「大丈夫、優喜…?」
私が立ち止まったまま動かずに…動けずにいると、お母さんは立ち上がった。
…同時に、ピピーッと機械音が響く。
お母さんの携帯電話だ。お母さんはハッとして、すぐに出る。
「はい? …え? ナニ?」
口調は厳しいものになる。
『お母さん』ではなくて、『働く人』の。
「ミスった?! ドコで? ――うん…」
お母さんは大きくため息をついた。
「泣いてもしょうがないでしょ? 今から行くから、とりあえず出来ることから始めてて」
電話を切ると、お母さんはため息をついた。
私に目を向ける。
「本当は久々に優喜と美味しい物でも食べ行こうと思ってたんだけど…ごめん、急にトラブっちゃったみたい」
私は頷く。
頷くけど、言葉は残ってない。
「今のプロジェクト終わったら、お母さんらしいこと…ちゃんと、するから」
ごめんね、と繰り返すお母さん。
私は頷く。
お母さんは居間を出ると、5分もしないうちに出て行った。
テレビがつきっぱなしで、ひとりで騒いでいる。
私は着替えないで、ソファに座り込んだ。
面白くないから、チャンネルを変える。
面白くなくて、また変える。
…一回りして最初の番組に戻り、私はそこでテレビを消した。
――シン、と。
急に沈黙が部屋を支配する。
(………静か、だな…)
私はそのままソファに横になった。
制服姿のままだけど…そのまま、瞳を閉じる。
――静かだ。
こんなに、静かだったっけ?
窓の外から車の通る音が聞こえた。
…その音もすぐにやんで、また静かになる。
目を開いた。
私の部屋よりは広いけど…特別広い部屋というわけでは、きっとない。
だけど、広い。
何も変わってない。
――何も…。
(……オカシイ、なぁ…)
常盤が『誰』か、わからない。
そうわかって部屋を見ると…また、オカシイことに気付いた。
どうして疑問に思わなかったのだろう。
(常盤がどの部屋で寝てたか、知らないや)
どうして、気付かなかったのだろう。
常盤を外で見たことがないし、常盤が居間と廊下に以外にいたところを、見た覚えがないことに。
(…変なの…)
常盤がいても、いなくても――この部屋は変わらない。
常盤という存在がまるでなかったかのように…何も、変わっていないのだ。
一ヶ月は一緒に暮らしていたはずなのに、全く変わってないのだ。
――まるで、ずっと一人で過ごしていたかのように。
「………37.8度」
ポツリと呟いた。
言った途端に、熱を自覚…。
クラッとする。
(もしかして起きられなかったのって、すでに体調が悪かったのかな…?)
木曜日と金曜日。
私は、起きられなかった。
――いや、起きられたんだけど、寝坊した。
昨日は横腹が痛いのがなかなか治まらなかったし…。
「は…あ…」
息を吐き出す。
――居間に、その声は妙に響いた。
体温計を引き出しに戻す。
クスリを飲んで寝てれば治るだろう。
そう思って…クスリを飲むためには、多少何かを食べなきゃいけないなぁとぼんやりと思った。
そのままフラフラと台所に行って冷蔵庫を覗くと、この間食べたいような気がして買いながら、結局食べていなかったヨーグルトがあった。
冷たいし、これくらいなら多分食べられる。
四人掛けのテーブルの椅子に一人、座る。
蓋を剥がして、アロエの入ったヨーグルトを一口食べた。
ひんやりした感覚が口の中に広がる。
柔らかくて、冷たい。
アロエだけ噛み砕いて、飲み込む。
今日は風が強いらしく、風の音が時々聞こえた。
ヨーグルトを食べきるとスプーンを洗って、水を飲んだ。
クスリを口に抛り込んで、水で流し込む。
コップも洗って、居間を出た。
どうせ寝るならちゃんとベッドで寝たほうがいいだろう。
ベッドに横になるとまた、風の音が聞こえた。
カーテンを開けた窓から外が見える。
――空が見える。
揺れる木の枝が見え隠れする。
ビュービューと風の音が、聞こえる。
…それ以外の音が聞こえない。
「………」
なぜ、と。
声にはしないで呟いた。
熱があるせいなのか、視界が歪んでいる。
…瞳に映る空が…木が、潤む。
(体調が悪くなると…)
『さびしい』なんて思うのだろう。
いつものことだ。
一人で過ごす休日など…予定がない日は、いつだってそうやって過ごしてきた。
一人で過ごす時間には慣れている。
一人の時間には慣れている。
――家族のいない時間なんて、どれほど過ごしたか。
さびしくない。
さびしくなんてない。
一人には慣れている。
さびしくない。
さびしくない。
――『さびしい』なんて、言っちゃいけない。
父も母も、暮らしていくために働いてくれている。
…二人と、自分のために働いてくれている。
さびしい、なんて…言っちゃいけない。
自分だけが『さびしい』なんて、嘘だ。
春は、眠ったままのお父さんの代わりに――お母さんの助けとなるように、働いている。バイトしてる。
何もしてない私が、『一人でさびしい』なんて言っちゃいけない。
『一人だからさびしい』なんて言っちゃいけない。
――言える立場じゃない。
(さびしくなんて、ない)
自分に言い聞かせる。
言い聞かせて、瞳を閉じる。
…風の音。
――木々の揺れる音。
雨の音。
静かな時間。
過ぎていく、時間。
――風がふく。
雨が、窓に当たる音。
――まるで、世界に自分しかいないような錯覚。
世界に一人しかいないような錯覚。
――独りのような、錯覚。
サビシイ。
…さびしくない。
さびしくない、さびしくない。
――サビシイ。
「…ゆきちゃん」