――呼ぶ声が、聞こえた気がした。
私を、呼ぶ声。
…ここに一人でいるはずの私を…呼ぶ声。
「――ゆきちゃん」
「なー」
(――あ、れ…?)
猫の鳴き声も聞こえる気がする。
…私を呼ぶ声も、猫の鳴き声も、聞き覚えのあるもの。
――そう思って、目を開いた。
…瞼が重くて、なかなか開けられない。
「大丈夫…?」
ようやく目を開くと、そこには男の子。
――緑がかった青い瞳。
落ち着いた口調。
また「なー」と、猫の鳴き声。
「と…きわ…?」
昨日の朝まで確かにいて。
――いたはずで、だけど…昨日の夕方、突然姿を消した男の子。
一ヶ月くらい前に、突然姿を現した男の子。
『誰』なのか、わからない男の子。
「寒い? …大丈夫?」
私は瞬いて、瞬いて、じっと常盤を見つめる。
――瞬いても、姿が消えない。
布団から手を出して、私を覗き込む常盤の頬をつまんだ。
…ちゃんと感覚がある。
一度力を緩めて、またつまんだ。
…さっきよりも、指先に力を入れて。
「い、イタ…ゆきちゃん、ちょっとイタイ」
常盤は顔を歪める。
言葉と表情にハッとして、手を引っ込めた。
常盤は自分の頬を左手で軽くなでて、また私を見た。
「――大丈夫?」
繰り返される言葉。
手に残る感触。
…お母さんの言葉。
――自分の記憶。
『誰』なのかわからない男の子。
「とき…わ…?」
私が呼ぶと常盤はほんの少し笑った。
自分もいる、と猫――カンタも「なー」と自己主張する。
「ホント…に…?」
私の問いかけに、常盤がフワリと笑う。
――10歳くらいの男の子としては、大人びた笑みで。
「大丈夫?」
繰り返される言葉。
――その言葉に、応じる。
「…大丈夫、だよ」
常盤は瞬いて、それからまた、笑った。
――少し、寂しそうに見える。
「本当に?」
聞き返された。
――『大丈夫?』と訊かれて『大丈夫じゃない』って答える人はそんなにいない気がする。
「…大丈夫、だよ」
私が答えると、常盤の手が私の額に触れた。
…冷たい。
私の額が熱いだけなのかもしれないけど。
――心地いい。
「ゆきちゃん」
額に触れた手が、私の髪をそっと梳いた。
額にくっついていた髪を分けられる。
「さびしい、って言っていいんだよ?」
常盤の言葉に息を呑んだ。
――突然、何を言うのか。
「…ゆきちゃん」
緑がかった青い瞳から目が離せない。
『ゆきちゃん』
――誰かの声と、常盤の声と…重なる。
「…言え、ない…」
そう思った途端、常盤の言葉に答えていた。
「――言わない…」
言っちゃいけない、と呟く。
どうして? と常盤は聞き返した。
――柔らかく。
まるで私のほうが子供みたいに…私のほうが年下であるかのように、優しく。
小さい子に問い返すように、ゆっくりと。
「――だって…」
私が言っていい言葉ではないから。
私が言える言葉ではないから。
さびしい、なんて――単なる我儘だから。
「春みたいに…お父さんやお母さんに何かしてるわけでもないのに…そんなこと、言っちゃいけない」
常盤はただ、聞いていた。
常盤の手が、また、私の髪を梳く。
――髪を梳いて、頭を撫でる。
小さな手だとわかるのに…とても、安心する。
「――誰かと比べて…」
静かに、口を開いた。
…常盤の声は、静かだ。
とても、聞いていて心地いい声。
「幸福とか、悲しいとか――悲しくないとか、…あるのかもしれない」
ゆきちゃん、と常盤は私を呼んだ。
――私は、この男の子のことを知らない。
常盤が『誰』なのかわからない。
…なのに、どうして。
「でもね…実際辛いのも、悲しいのも…自分」
常盤の言葉がこんなにもすんなり聞き入れられるんだろう…。
「比べても、しょうがない」
ぼんやりと常盤と見上げる私の目を、小さな手のひらが覆った。
…視界が暗くなる。
私は目を閉じた。
「――悲しいものは、悲しい。辛いのは、辛い。…さびしい時は、さびしい」
広がる、波紋。
…静かな水面に、一滴の水がこぼれたように。
広がる、言葉。――声。
閉じた瞳。…感じる、手のひら。
耳からは、常盤の言葉が続いてくる。
「認めてあげて、ゆきちゃん」
――ああ。
「自分のさびしさを」
…ああ。
柔らかく、私の髪を梳く。
梳きながら、名前を呼んで。
柔らかく…私の頭をなでて。
「いい子だね。…頑張ったね」
勝手に溢れ出るもの。
――涙。
「ゆきちゃんはいい子だよ。――さびしかったね」
小さな手が頬に触れて、涙を拭う。
――その手のひらに、なぜかまた涙は零れる。
…ああ、私は。
さびしかったのか。
ずっと、さびしかったのか。
「――っ…」
ヒトリでいることが、さびしかったのか。
――ずっとずっと。
「…もう、大丈夫だから…」
柔らかな常盤の声。
――優しい、男の子の声。
私はこの声を、知っている。
常盤が『誰』なのか知らない…けれど。
私は、常盤を知っていたのだ。
「――ゆきちゃんは、いい子だよ…」
「寂しければ、ぼくを呼んで」
そう言って、髪をなでてくれた。
「かけて行くから。…泣かないで」
緑がかった青い瞳。
…10歳くらいの男の子。
でも、とても年上だと思っていた。
――私がまだ、幼稚園に通うか、通う前のことだったから。
「ゆきちゃん」
どこの誰、なのかは知らなかった。
…でも、小さな私はその男の子のことが大好きで、大好きで。
親鳥の後を付いて歩くヒヨコみたいに、その男の子に懐いていた。
私の名前を呼んで、髪をなでて。
「ぼくはここにいるよ」
膝を折って、私と視線を合わせて。
――緑がかった青い色の、優しい瞳で。
「ずっとずっと、頑張ったね」
――優しく、言ってくれた。
「いい子だよ。ゆきちゃんは」
さびしくて泣いていた私の頭を何度も何度も撫でてくれたのだ。
なぜ、忘れていたのだろう。
どうして、思い出さなかったのだろう。
常盤が『誰』なのかは知らない。
でも、ずっと前から知っていた。
「ゆきちゃん」
その声も、手のひらも――優しい瞳も。
「ゆきちゃんは、いい子だよ」
…ずっと前から、知っていた。
「優喜? ――優喜?」
「………」
呼ぶ声に、ぼんやりと目を開いた。
――お母さん?
言葉にできないまま問いかける。
お母さんの手のひらが、私の額に触れた。
「なんかちょっと…熱っぽい?」
「――かも…」
ぼんやりしたまま、答える。
「…薬飲んだ? ――と…その前に、何か食べなきゃいけないわね」
ブツブツと何か言っているお母さんに私は何度か瞬いて、問いかけた。
「――仕事は…?」
私の問いかけに、お母さんは苦笑する。
「大丈夫よ。少しくらい抜けたって」
世代交代も大切よ、と立ち上がる。
「ヨーグルトくらいなら食べられるかしら? お茶でも飲む?」
「…お茶より…ポカリのみたい…」
「了解。ちょっと買ってくるから」
起こしてごめんね、とお母さんが部屋を出て行った。
背中を見送る。
お母さんの、背中を。
…さびしさはない。
『――ゆきちゃんは、いい子だよ…』
常盤の言葉が、頭の中で繰り返される。
――頭の中で繰り返されているのに、常盤の居た形跡はどこにもない。
『…もう、大丈夫だから…』
その声も、手のひらも――優しい瞳も…思い出せるのに。
ついさっきまで、そこにいたはずなのに。
『ゆきちゃんは、いい子だよ』
「あ、おかえり」
「ただいま」
お父さんの単身赴任の期間が終わった。
…お母さんの仕事も、関わっていたプロジェクトが一段落ついたらしく、張り切って世代交代している、らしい。
今はもう、家に帰るとお母さんがいることのほうが多い。
休日も、二人がいることのほうが多い。
『…もう、大丈夫だから…』
――私は、一人じゃなくなった。
休日の家で、一人で過ごす時間が少なくなった。
常盤が言ったように。
もう、大丈夫だからと言った――常盤の言葉通りに。
幻のような男の子。
――髪を梳く手や、頭をなでる手を思い出せるのに。
静かな声を、優しい言葉を思い浮かべることができるのに…。
『誰』なのかわからない、男の子。
…一緒に過ごしたはずの一ヶ月さえ、今はもう夢だったようにも思える。
さびしかったかもしれない私の生んだ妄想だったのかと。
「懐かしい!」
突然お母さんが言った。
部屋に戻ろうとしたところだったけど、思わず立ち止まる。
…何を見ているんだろう?
思わず声をあげたお母さんのところに戻る。
覗き込めば…写真があった。
「やー…当たり前だけど…優喜、大きくなったわねー」
「シミジミ言うね…」
「しみじみ思ったもの」
スーツを脱いだお父さんも覗き込む。
アルバムに入れないで、写真だけが入っている箱にお父さんも手を伸ばした。
整理しないとなぁとか言いながら、しばらく眺めていたお父さんがふと、止まる。
「…誰だっけ、この子?」
「ナニ? ムスメの顔もわからないの?」
冗談めかしたお母さんの言葉に「違う」とお父さんは首を横に振った。
一枚の写真をお母さんに手渡す。
「近所の子かな?」
お父さんから渡された写真をじっと見るお母さん。
私も覗き込む。
…小さな私と…。
「…? 誰…だったかしら…」
――男の子。
年の頃にしては、大人びた笑み。優しい笑顔。
小さな私も、満面の笑顔。
「――…常盤…」
写真では、その瞳の色までは写しだせていない。
――けれど。その顔…笑顔は、常盤。
夢じゃなかったんだ。――妄想でも、幻でもなかった。
確かに、あの子はいた。
こうして、私の傍に…確かにいてくれてたんだ。
「優喜、覚えてる?」
お母さんは思わず呟いた私に気付いたのか、そう言った。
私は笑ってしまう。
夢、みたいな。
――幻、みたいな。
「――うん」
多分、初恋の君。
少年と猫−ハツコイノキミ−<完>
2007年10月12日(金)【初版完成】