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 ――呼ぶ声が、聞こえた気がした。
 私を、呼ぶ声。
 …ここに一人でいるはずの私を…呼ぶ声。

「――ゆきちゃん」
「なー」

(――あ、れ…?)

 猫の鳴き声も聞こえる気がする。
 …私を呼ぶ声も、猫の鳴き声も、聞き覚えのあるもの。
 ――そう思って、目を開いた。

 …瞼が重くて、なかなか開けられない。

「大丈夫…?」

 ようやく目を開くと、そこには男の子。
 ――緑がかった青い瞳。
 落ち着いた口調。

 また「なー」と、猫の鳴き声。

「と…きわ…?」

 昨日の朝まで確かにいて。
 ――いたはずで、だけど…昨日の夕方、突然姿を消した男の子。
 一ヶ月くらい前に、突然姿を現した男の子。
 『誰』なのか、わからない男の子。

「寒い? …大丈夫?」

 私は瞬いて、瞬いて、じっと常盤を見つめる。
 ――瞬いても、姿が消えない。

 布団から手を出して、私を覗き込む常盤の頬をつまんだ。
 …ちゃんと感覚がある。

 一度力を緩めて、またつまんだ。
 …さっきよりも、指先に力を入れて。

「い、イタ…ゆきちゃん、ちょっとイタイ」
 常盤は顔を歪める。
 言葉と表情にハッとして、手を引っ込めた。

 常盤は自分の頬を左手で軽くなでて、また私を見た。

「――大丈夫?」

 繰り返される言葉。
 手に残る感触。

 …お母さんの言葉。
 ――自分の記憶。

 『誰』なのかわからない男の子。

「とき…わ…?」

 私が呼ぶと常盤はほんの少し笑った。
 自分もいる、と猫――カンタも「なー」と自己主張する。

「ホント…に…?」

 私の問いかけに、常盤がフワリと笑う。
 ――10歳くらいの男の子としては、大人びた笑みで。

*** *** ***

「大丈夫?」
 繰り返される言葉。
 ――その言葉に、応じる。
「…大丈夫、だよ」

 常盤は瞬いて、それからまた、笑った。
 ――少し、寂しそうに見える。

「本当に?」
 聞き返された。
 ――『大丈夫?』と訊かれて『大丈夫じゃない』って答える人はそんなにいない気がする。
「…大丈夫、だよ」
 私が答えると、常盤の手が私の額に触れた。
 …冷たい。
 私の額が熱いだけなのかもしれないけど。
 ――心地いい。

「ゆきちゃん」

 額に触れた手が、私の髪をそっと梳いた。
 額にくっついていた髪を分けられる。

「さびしい、って言っていいんだよ?」

 常盤の言葉に息を呑んだ。
 ――突然、何を言うのか。

「…ゆきちゃん」
 緑がかった青い瞳から目が離せない。

『ゆきちゃん』

 ――誰かの声と、常盤の声と…重なる。

「…言え、ない…」
 そう思った途端、常盤の言葉に答えていた。
「――言わない…」
 言っちゃいけない、と呟く。
 どうして? と常盤は聞き返した。
 ――柔らかく。
 まるで私のほうが子供みたいに…私のほうが年下であるかのように、優しく。
 小さい子に問い返すように、ゆっくりと。

「――だって…」

 私が言っていい言葉ではないから。
 私が言える言葉ではないから。

 さびしい、なんて――単なる我儘だから。
「春みたいに…お父さんやお母さんに何かしてるわけでもないのに…そんなこと、言っちゃいけない」
 常盤はただ、聞いていた。

 常盤の手が、また、私の髪を梳く。
 ――髪を梳いて、頭を撫でる。

 小さな手だとわかるのに…とても、安心する。

「――誰かと比べて…」
 静かに、口を開いた。
 …常盤の声は、静かだ。
 とても、聞いていて心地いい声。

「幸福とか、悲しいとか――悲しくないとか、…あるのかもしれない」
 ゆきちゃん、と常盤は私を呼んだ。

 ――私は、この男の子のことを知らない。
 常盤が『誰』なのかわからない。
 …なのに、どうして。

「でもね…実際辛いのも、悲しいのも…自分」
 常盤の言葉がこんなにもすんなり聞き入れられるんだろう…。

「比べても、しょうがない」
 ぼんやりと常盤と見上げる私の目を、小さな手のひらが覆った。
 …視界が暗くなる。
 私は目を閉じた。

「――悲しいものは、悲しい。辛いのは、辛い。…さびしい時は、さびしい」
 広がる、波紋。
 …静かな水面に、一滴の水がこぼれたように。
 広がる、言葉。――声。

 閉じた瞳。…感じる、手のひら。
 耳からは、常盤の言葉が続いてくる。

「認めてあげて、ゆきちゃん」
 ――ああ。
「自分のさびしさを」

 …ああ。

 柔らかく、私の髪を梳く。
 梳きながら、名前を呼んで。
 柔らかく…私の頭をなでて。

「いい子だね。…頑張ったね」

 勝手に溢れ出るもの。
 ――涙。

「ゆきちゃんはいい子だよ。――さびしかったね」

 小さな手が頬に触れて、涙を拭う。
 ――その手のひらに、なぜかまた涙は零れる。

 …ああ、私は。
 さびしかったのか。
 ずっと、さびしかったのか。

「――っ…」

 ヒトリでいることが、さびしかったのか。
 ――ずっとずっと。

「…もう、大丈夫だから…」

 柔らかな常盤の声。
 ――優しい、男の子の声。

 私はこの声を、知っている。
 常盤が『誰』なのか知らない…けれど。

 私は、常盤を知っていたのだ。

「――ゆきちゃんは、いい子だよ…」

*** *** ***

「寂しければ、ぼくを呼んで」
 そう言って、髪をなでてくれた。
「かけて行くから。…泣かないで」

 緑がかった青い瞳。
 …10歳くらいの男の子。
 でも、とても年上おにいちゃんだと思っていた。
 ――私がまだ、幼稚園に通うか、通う前のことだったから。

「ゆきちゃん」

 どこの誰、なのかは知らなかった。
 …でも、小さな私はその男の子のことが大好きで、大好きで。
 親鳥の後を付いて歩くヒヨコみたいに、その男の子に懐いていた。

 私の名前を呼んで、髪をなでて。
「ぼくはここにいるよ」

 膝を折って、私と視線を合わせて。
 ――緑がかった青い色の、優しい瞳で。
「ずっとずっと、頑張ったね」
 ――優しく、言ってくれた。
「いい子だよ。ゆきちゃんは」

 さびしくて泣いていた私の頭を何度も何度も撫でてくれたのだ。

 なぜ、忘れていたのだろう。
 どうして、思い出さなかったのだろう。

 常盤が『誰』なのかは知らない。
 でも、ずっと前から知っていた。

「ゆきちゃん」

 その声も、手のひらも――優しい瞳も。

「ゆきちゃんは、いい子だよ」

 …ずっと前から、知っていた。

*** *** ***

「優喜? ――優喜?」
「………」
 呼ぶ声に、ぼんやりと目を開いた。

 ――お母さん?

 言葉にできないまま問いかける。
 お母さんの手のひらが、私の額に触れた。
「なんかちょっと…熱っぽい?」
「――かも…」
 ぼんやりしたまま、答える。
「…薬飲んだ? ――と…その前に、何か食べなきゃいけないわね」
 ブツブツと何か言っているお母さんに私は何度か瞬いて、問いかけた。
「――仕事は…?」
 私の問いかけに、お母さんは苦笑する。
「大丈夫よ。少しくらい抜けたって」
 世代交代も大切よ、と立ち上がる。
「ヨーグルトくらいなら食べられるかしら? お茶でも飲む?」
「…お茶より…ポカリのみたい…」
「了解。ちょっと買ってくるから」
 起こしてごめんね、とお母さんが部屋を出て行った。

 背中を見送る。
 お母さんの、背中を。
 …さびしさはない。

『――ゆきちゃんは、いい子だよ…』

 常盤の言葉が、頭の中で繰り返される。
 ――頭の中で繰り返されているのに、常盤の居た形跡はどこにもない。

『…もう、大丈夫だから…』

 その声も、手のひらも――優しい瞳も…思い出せるのに。
 ついさっきまで、そこにいたはずなのに。

『ゆきちゃんは、いい子だよ』

*** *** ***

「あ、おかえり」
「ただいま」

 お父さんの単身赴任の期間が終わった。
 …お母さんの仕事も、関わっていたプロジェクトが一段落ついたらしく、張り切って世代交代している、らしい。

 今はもう、家に帰るとお母さんがいることのほうが多い。
 休日も、二人がいることのほうが多い。

『…もう、大丈夫だから…』

 ――私は、一人じゃなくなった。
 休日の家で、一人で過ごす時間が少なくなった。

 常盤が言ったように。
 もう、大丈夫だからと言った――常盤の言葉通りに。

 幻のような男の子。
 ――髪を梳く手や、頭をなでる手を思い出せるのに。
 静かな声を、優しい言葉を思い浮かべることができるのに…。
 『誰』なのかわからない、男の子。

 …一緒に過ごしたはずの一ヶ月さえ、今はもう夢だったようにも思える。
 さびしかったかもしれない私の生んだ妄想だったのかと。

「懐かしい!」
 突然お母さんが言った。
 部屋に戻ろうとしたところだったけど、思わず立ち止まる。
 …何を見ているんだろう?
 思わず声をあげたお母さんのところに戻る。
 覗き込めば…写真があった。

「やー…当たり前だけど…優喜、大きくなったわねー」
「シミジミ言うね…」
「しみじみ思ったもの」
 スーツを脱いだお父さんも覗き込む。

 アルバムに入れないで、写真だけが入っている箱にお父さんも手を伸ばした。
 整理しないとなぁとか言いながら、しばらく眺めていたお父さんがふと、止まる。

「…誰だっけ、この子?」
「ナニ? ムスメの顔もわからないの?」

 冗談めかしたお母さんの言葉に「違う」とお父さんは首を横に振った。
 一枚の写真をお母さんに手渡す。
「近所の子かな?」
 お父さんから渡された写真をじっと見るお母さん。
 私も覗き込む。

 …小さな私と…。
「…? 誰…だったかしら…」
 ――男の子。

 年の頃にしては、大人びた笑み。優しい笑顔。
 小さな私も、満面の笑顔。

「――…常盤…」

 写真では、その瞳の色までは写しだせていない。
 ――けれど。その顔…笑顔は、常盤。

 夢じゃなかったんだ。――妄想でも、幻でもなかった。
 確かに、あの子はいた。
 こうして、私の傍に…確かにいてくれてたんだ。

「優喜、覚えてる?」 
 お母さんは思わず呟いた私に気付いたのか、そう言った。

 私は笑ってしまう。

 夢、みたいな。
 ――幻、みたいな。

「――うん」

 多分、初恋の君。

少年と猫−ハツコイノキミ−<完>

2007年10月12日(金)【初版完成】

 
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